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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。
当時はまだ若い営業マンは少なかった。
高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。
営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。
まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさせることはなかった。すべては談合で決まっていったのである。
しかし、時代は変わっていく、官庁工事の発注は減りゼネコン各社は民間工事へシフトしてゆき、そこで柔軟な発想のできる若い営業マンを育てる必要があると気付くのである。
私はまだバブルの名残りのあるなかで、京都営業所での事務と京都管轄の現場事務を4年間担当して建設会社の「いろは」を教えてもらった。
(ゼネコン営業マン編)を始める前にまずはここから話したいと思う。


私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)プロローグ これまた贈答の巻

昭和60年(1985年)に私は東京に本社がある一部上場のゼネコンに入社した。いろいろ経緯があり望む会社ではなかったが、合気道の道は絶って、生きていくために入社した会社であった。
当時、華々しい海外での請負工事ばかりか、某都市銀行にそそのかされて海外で自社開発事業まで始めた元気のよいゼネコンであった。
4ヶ月間の英語研修を本社で受け、8月までを足立区の竹の塚寮で生活しながら学生時代の延長のようなことをやりながら給料をもらっていた。

そして、8月の盆明けに東京での4年と4ヶ月の生活を終えて、大阪支店に向かったのである。
ほぼ初めての大阪の地だった。
大阪支店は都島区の京橋、大学近くの喫茶店のおばちゃんに「としまくのきょうばし」の会社に勤めるよ。と言うと「みやこじまくのきょうばし」よと、大阪出身のおばちゃんは丁寧に教えてくれた。なんとなく東京との近さを感じていた私の思いはそこで崩れ去ってしまった。

3日間の大阪支店での研修のあと、私は京都営業所配属を命じられて、迎えに来てくれた無口な事務主任に引率されて京阪急行に乗り最寄り駅の「藤森」(ふじのもり)に向かった。主任が買ってきた週刊新潮と文春を車中で交互に読んだのを記憶している。

生まれて初めて降り立った京都の地が「藤森」だと言ったら京都人はどう思うのであろうか。京都市南部の伏見区の中央部くらいであろう、北の隣の隣の駅が「伏見稲荷」、すぐ南には伏見桃山城があったが、特徴のある町じゃなかった。
主任に「ここが京都ですか?」と聞くと、「うん」と返ってきた。
ここから私の京都事務屋時代が始まったのである。

そしてこれから10年ほど過ぎて私は営業職としてまた京都に戻って来るのであった。

京都営業所の朝は早かった。8時半~17時半の就業規則であったが、6時半には営業所に降りていた。
事務課長と建築責任者の営業所次長が7時には会社に入っていた。早い時間に仕事をやろうというよりも、当時から二人が住んでいる桂方面から京都市内に入るために渡らねばならない桂川の橋がどこも異常に混み合ったためである。それを避けるために早く出てくるいらちの二人だったのである。

私は毎朝まずはすべての窓を開け放った。当時は自席喫煙が当たり前、空気の入れ換えを行い、30ほどあった机を全部拭いて二人の到着を待ったのである。京都新聞と日経に目を通し、8時半からラジオ体操、朝礼を行って一日がスタートした。所長がやって来るのはだいたいその後である。朝はたいてい不機嫌そうにやって来て、所長室に入ってしまうことが多かった。ほぼ毎晩が接待の人だった。

京都営業所は当時特殊な営業所だった。民間営業も官庁営業の話し合い(談合)も出来る人間でなければ所長を務めることは出来なかった。
『T』という所長はどちらにも長けた能力を持つ人間だった。民間も官庁も仕事の決まる最終は「人」だったのである。仕事の顔の裏には人懐っこい性格と自宅で絵を描き、陶器を焼く意外性を持ち合わせていた。それと常識に囚われることのない発想があった。
そんな魅力的な人間だったのである。

営業所のあった深草には名神高速が通っており、京都南ICが近かった。営業所用の土地として買い求めた昭和30年代には田んぼばかりだったそうである。しかし、名神の開通と京都南ICの開設が決まったら、どっと反社会勢力、右翼・左翼、その他諸々の事務所が林立しだし、私が知る頃には40ものそんな事務所が出来ていた。

同じ「組」ではあったことは関係ないのだが、時々トラブルがあった。事務所二階が一部張り出しになっており、その下が所長の自家用車の駐車用の定位置となっていた。そこに3軒先の暴力団事務所の外車が乗りつけ、駐車していこうとしたのである。2階から見ていた私は1階に駆け下りて「勝手に止めるな」と言った。「関係ない、生意気なガキだ」と相手二人と揉めているうちに所長が正面からやって来て自分のジャガーを思い切り幅寄せして人が乗れないようにして駐車したのである。そして一言、「鈴木に挨拶に来いと伝えろ」そのまま事務所に上がってしまったのである。そしてすぐに3軒先から泡を食った組長らしき男がさっきの二人を従えてやって来た。

「宮島君、中に入れ」と所長に言われ所長室に入ると三人が土下座していた。こいつらで間違えないかと聞かれ「はい」と返事してそのまま退室した。その後、どんな話をしたか知らないが、後で聞いた話によると所長はずいぶん偉い組長と昵懇だと言うことだった。そしてそれから1年間、二人は所長の駐車スペースを毎朝掃き掃除していた。

そして、テーマに沿った本題である。
『T』という所長は私の勤めたゼネコンの創業者の一人の子息であった。福井の実家の親戚に造り酒屋があり。毎年年明けにそこからどっと新酒と酒粕が届いた。得意先への贈答用として勝手に発注しているのであった。その量は半端ではなく、40人ほど入れる会議室の半分ほどが天井まで埋まってしまい、そこに入れば酒に弱い人間でなくとも匂いで酔っ払ってしまうほどの量だったのである。

「宮島君はスーツを持っているのか」と聞かれ、「はい」と答えるや否やすぐに着替えさせられて黒塗りの社有車で新酒と酒粕の配達を命じられた。京都の北から南までいろんなお宅に行かされた。一番印象に残っているのは京都南部のデカい門とコンクリート製の擁壁のような壁に囲まれ各所に監視カメラと入り口にデカい信楽焼のタヌキのいるお宅と、一番に行った京都左京区松ヶ崎の瀟洒な洋館であった。松ヶ崎のお宅の表札の苗字に覚えがあり、運転手さんに確認すると大阪支店長の自宅だった。
最後は副会長まで登り詰めた当時専務取締役支店長の自宅からは奥さんが出てきて「ありがとう」と、当然のように受け取り私に玄関まで運ばせた。
営業所に戻ると所長に一番に「松ヶ崎は受け取ったか?」と聞かれた。「はい」と答えるとすぐに達筆な自筆で交際費支出伺いを書き、事務課長に翌日支店まで持って行けと命じていた。
どのような会社でも同じであろうが贈答にはその範囲に目安や限度がある。それを飛び越えた量と額の贈答の決済を取るためにそれなりの知恵が必要である。普段から会社の金をたくさん使っていた所長にしても、500万円の酒代は少し高く、支店長の奥さんを利用したのであった。


仕事が出来、怒ると本当に怖い所長でしたが、優しく気配りも出来る人でもありました。営業に移籍する前に「へー」と私が驚いたゼネコンらしい事件を次回一つ紹介して長いプロローグを終わりたいと思います。


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