宮島ひでき

只今人生修行中。探すは旨い昼酒の飲める方法。 文章書くのが好きですよ。カレーと餃子は大…

宮島ひでき

只今人生修行中。探すは旨い昼酒の飲める方法。 文章書くのが好きですよ。カレーと餃子は大好きですよ。 合気道六段、産業カウンセラー。 木曜、日曜にエッセイ投稿いたします。

マガジン

  • 生きるためにやって来た仕事のはなし

    なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です

  • 研師(とぎし)ヒデの話

    無用の長物である日本刀の嘆きを聞くことのできる、現代を生きる研師ヒデの話

  • 飲み屋に恋する男のはなし

    酒抜きで語れぬ私の人生、そのほんの一部をお聞きください、、

  • 日々考えることのはなし

    毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました

  • 餃子ラブ、魅惑の中華料理たちのはなし

    美味しいものは生きる糧、そのなかでも大好きな餃子と中華料理への私のラブです

記事一覧

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち

私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。 入…

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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭さ…

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研師(とぎし)ヒデの話「ヒデの聖戦」

ヒデは研師、裏の世界で名を知られる本当の刀の研師である。 刀は本来、人を斬る道具である。 刀は美術館に展示されたり、愛好家の手元で慰み物になるために生まれてきたわ…

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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老…

宮島ひでき
13日前
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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業…

宮島ひでき
2週間前
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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』

もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。 建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作…

宮島ひでき
2週間前
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研師(とぎし)ヒデの話 「猫姫」泣く、そしてヒデの純情

智はヒデと別れて自宅へ帰り、晩飯もそこそこに部屋にこもってSNSの世界を駆け巡った。そして見つけたのである。その手の連中がいつもするようにぼやかしてはいるが、この…

宮島ひでき
3週間前
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研師(とぎし)ヒデの話 眠り続ける「猫姫」

ヒデは智と別れ、心地よい酔いとともに自室のあるマンションに戻った。そこで待っていたのは自分では決して切ることのできない鯉口から声を上げる団子刺しであった。 団子…

宮島ひでき
3週間前
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研ぎ師(とぎし)ヒデの話 「猫姫」との出会い

「研師(とぎし)ヒデ」 ヒデは数少ない本物の刀の研師、刀と話して刃研ぎをしながら、ある意味平和な今の世で、自らの本来の生きる道を断たれ刀たちを慰めているのである…

宮島ひでき
1か月前
164

酒を飲まずに酒飲を考える

自分が歳を取るだなんて考えることのない若い時代は誰にでもあるであろう。 自分が歳を取ることを真剣に思い詰めて生きる人間も少ないだろう。 行き着くところ辺りまで行っ…

宮島ひでき
1か月前
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もう一人の森の話

前回の記事で高校時代の同級生の森のことについて書いたが、実はもう一人森がいた。 森典幸(もりのりゆき)、いつもノリと呼んでいた。たぶん私の親友と言える男だった。…

宮島ひでき
1か月前
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咲けば散る、春は去る、

清明、子どもの頃からまあまあ漢字が好きである。 この時期に春は私たちに清らかな生の喜びを振りまいてくれる。  日に日に陽は明るさを増し季節の移ろう躍動を感じさせて…

宮島ひでき
1か月前
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風邪ひきの思考

なんと、不覚というか、珍しく風邪を引いてしまいました。 熱は出るは、咳は出る。身体は重くやる気は失せ、仕方なくずっと寝ていました。自分でも驚くほど寝ていました。…

宮島ひでき
1か月前
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ものを考えるスタイル

新聞の定期購読はいまだに日経です。「まだ日経なんか読むの、、」と年上の方から言われたことがありますが、ま、私の使う金であり、私の興味・知りたいことは日経にあるの…

宮島ひでき
1か月前
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人を待つ時間

昨夜の関西はぐずぐずの雨模様だった。 たまってしまった仕事を朝から片付け、夕方人と会うためにとある場所まで足を運んだ。久しぶりにお会いする方、遅れるわけにはいか…

宮島ひでき
1か月前
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一日の終わりに私が思ったこと

昨晩は寒かった。 休みなのに珍しく酒を飲むこともなく、部屋でパソコンに向かい出してのことだった。 明日は始発に乗る用事がある。出来るだけ早くベッドに入ろうと思った…

宮島ひでき
1か月前
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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち

私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。 入社式で社員1万人の退職金をキャッシュで支払うだけの銀行預金を持っていると本社経理課長が説明したのを指で計算しながら、なんだかすごいなぁと思ったのを記憶している。 後発のゼネコンであったたが当時の経営者達の知恵と度胸、先輩達の並々ならない努力の賜物で大手ゼネコンに食い込み、受注額1兆円をゼネコンで初めて突破して飛ぶ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『K』という営業課長の話

私は営業所と現場での事務を都合4年間やり、営業職に移った。営業所の建築課長とあることの主張で対立し、もう会社を辞めようと思っていたところを営業所の営業部長に諭され、促されて営業に移ったのである。でもこの時の京都営業所営業課での所属は1週間だけであった。どうせやるなら大阪支店で勉強して来いと新しく代わった営業所長に背を押され、大阪支店営業部に送り出されたのであった。 そしてこの後私の出会った多くの先輩達は皆アクが強く、皆強烈に仕事の出来る男たちばかりであった。 その中でも私はこ

研師(とぎし)ヒデの話「ヒデの聖戦」

ヒデは研師、裏の世界で名を知られる本当の刀の研師である。 刀は本来、人を斬る道具である。 刀は美術館に展示されたり、愛好家の手元で慰み物になるために生まれてきたわけではない。 見せかけの平穏な今の世に、泣く刀が数多くいる。 ヒデは研師、そんな刀たちを研ぎ、その嘆きを聞いてやるのだ。 ヒデは最近赤い夢を見る。ぼんやり全体が赤い夢である。 それが記憶に無い母親の胎内の血であるのか、これまで流してきた人の血の赤なのか分からない。でも、不吉な予感が拭い去れずこの夢を見るのが怖かった

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話

それは1本の電話から始まった。 着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。 見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。 どこに行っても老人ホームは「嫌悪施設」とみられるきらいがあり、総論賛成各論反

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『T』という所長の話

私がゼネコンで営業マンになったのは30歳になってからである。 当時はまだ若い営業マンは少なかった。 高度経済成長期にはゼネコンに営業をさせずとも、大きなインフラ事業(高速道路、ダム、トンネルなど)が十分会社を潤わせてくれたのであった。 営業部にはそんな大型現場を終えてきた所長クラスの土木屋、建築屋が次にやって来る仕事に控えて、朝から暇そうに煙草をくゆらせ新聞に目を通して昼前に会社を出て行って、そのまま帰ることはなかった。 まだ潤った時代の名残りは会社に本当の営業の必要を感じさ

私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』

もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。 建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作り上げていくのである。 「まずは土地ありき」と思われがちであるが、そうばかりではないのである。 どのゼネコンも官民の担当を分けていた。飲み食いが当り前の民間営業と官庁営業を一緒にしてしまうと贈収賄にもつながりやすく、第三者の目から誤解を受ける可能性もある。だから分けられていた。しかし、きちんと分けれるのは本社や支店の営

研師(とぎし)ヒデの話 「猫姫」泣く、そしてヒデの純情

智はヒデと別れて自宅へ帰り、晩飯もそこそこに部屋にこもってSNSの世界を駆け巡った。そして見つけたのである。その手の連中がいつもするようにぼやかしてはいるが、この世に不要な小動物に正義の鉄槌を下していると得意げに記していたのである。 しかもそのぼやけた写真にはっきり写った男の右小指に智は見覚えがあった。中学の同級生徳田文雄であった。体育の時間に運動の苦手な徳田はバスケットボールでひどい突き指し、おかしな方向に曲がってしまった小指はもとに戻ることはなかった。徳田の父親は地元出馬

研師(とぎし)ヒデの話 眠り続ける「猫姫」

ヒデは智と別れ、心地よい酔いとともに自室のあるマンションに戻った。そこで待っていたのは自分では決して切ることのできない鯉口から声を上げる団子刺しであった。 団子刺しは鎌倉時代の業物の一刀「八丁念仏団子刺し」である。 智の祖父から研ぎを頼まれ、それが縁で智と付き合いだした。今の世にある刀剣の多くは鞘に納められ人間に決して聞くことのできない声を上げて泣いている。それを聞くことのできる男がヒデだったのである。刀剣は人を斬るためこの世に生み出され、決して美術品としてコレクターの愛玩

研ぎ師(とぎし)ヒデの話 「猫姫」との出会い

「研師(とぎし)ヒデ」 ヒデは数少ない本物の刀の研師、刀と話して刃研ぎをしながら、ある意味平和な今の世で、自らの本来の生きる道を断たれ刀たちを慰めているのである。 ヒデはマルの店にいた。その日初めて智をマルの店に連れてきたのであった。智はあの事件があってから変わった。障害者支援施設で今は相談員として地域の障害者を抱える家庭と話をしながら本人たちがより人間らしく生きていく方法を探っていた。 「ヒデさんお酒好きなんですか、なんだか楽しそうですよ」智はヒデに聞いた。「ああ好きだ

酒を飲まずに酒飲を考える

自分が歳を取るだなんて考えることのない若い時代は誰にでもあるであろう。 自分が歳を取ることを真剣に思い詰めて生きる人間も少ないだろう。 行き着くところ辺りまで行って「ああ、歳を取ったな」、そう思うのではないだろか。 そして、それはやってはならないことをするのと同じじゃないかとも思うのである。普通の人は理性がそのやってはならぬことを止めるのだろう。 でも、戦争では理性の箍が外れてしまい、大義名分を持って人の命を奪い去り、それから胸を張って両親、家族、愛する愛される人の待つ家に

もう一人の森の話

前回の記事で高校時代の同級生の森のことについて書いたが、実はもう一人森がいた。 森典幸(もりのりゆき)、いつもノリと呼んでいた。たぶん私の親友と言える男だった。 そして彼も真面目な男だった。一緒に通った高校は豊橋市と豊川市の境あたりの田んぼの真ん中の新設校だった。私の通学路は旧国道1号線、東海道を一直線、自宅から10分ほどの道のりだった。ノリの自宅は私の家からさらに20分ほど離れた東海道五十三次の赤坂の宿、御油の松並木を通り過ぎて少し行ったくらいだった。違うクラブに所属して

咲けば散る、春は去る、

清明、子どもの頃からまあまあ漢字が好きである。 この時期に春は私たちに清らかな生の喜びを振りまいてくれる。  日に日に陽は明るさを増し季節の移ろう躍動を感じさせてくれる。 清明はそんなこの時期にちょうどよい文字である。 不思議である。毎年この時期を通過しているのだがこの喜びや躍動感が薄れ行くことはない。それどころか歳とともにそれは濃さを増すこともあるように思えるのである。  高校一年の同級生に森清明という男がいた。明るく快活な男であった。真面目で嘘をつかずクラスで彼を厭う者

風邪ひきの思考

なんと、不覚というか、珍しく風邪を引いてしまいました。 熱は出るは、咳は出る。身体は重くやる気は失せ、仕方なくずっと寝ていました。自分でも驚くほど寝ていました。深く深く寝ていました。 飼い猫のトラが、まだ愛知で近所の番町猫だった頃に犬と喧嘩して、大けがをして帰って来ました。傷をブーニャンが舐め、トラは死んだように眠り続けました。そして二日後には復活しました。そんな二匹の姿を思い出しながら深い眠りに落ちていました。 精神論を健康に結びつけることはしないのですが、適度の緊張は

ものを考えるスタイル

新聞の定期購読はいまだに日経です。「まだ日経なんか読むの、、」と年上の方から言われたことがありますが、ま、私の使う金であり、私の興味・知りたいことは日経にあるので自由にさせていただいています。今は電子版に変えて仕事にも便利に使っています。 社会人になりたての頃のプレゼンの資料作りはいつも半日図書館に籠りました。たくさんの紙の資料に目を通して、高い使用料を払ってコピーを取り、それをデータにしたり貼り付けたり(糊でですよ)、それをまたコピーして資料を完成させていました。今は自室

人を待つ時間

昨夜の関西はぐずぐずの雨模様だった。 たまってしまった仕事を朝から片付け、夕方人と会うためにとある場所まで足を運んだ。久しぶりにお会いする方、遅れるわけにはいかず余裕を持って出かけたが、あまりに早くついてしまった。初めて降りる駅であった。 初めての町に行ったら必ず駅の周辺をウロウロすることにしている。ゼネコン営業マン時代からのクセである。町にはそれぞれの特性がある。歴史があっての町の成り立ちがある。住んだ人たちによって作られるのが町であろうが、町が住人を育てるようにも思う。

一日の終わりに私が思ったこと

昨晩は寒かった。 休みなのに珍しく酒を飲むこともなく、部屋でパソコンに向かい出してのことだった。 明日は始発に乗る用事がある。出来るだけ早くベッドに入ろうと思ったがなんとなくテレビが気になり、スポーツニュースだけ見ようと思ったのであるが、たまたま合わせたチャンネルで「天使にラブソングを」をやっていた。 テレビではあるが久しぶりに映画に見入ってしまい気がつけば10時となり、あわあわとパソコンにまた向かったのである。 ああ、こんなことが昔はよくあったな。日曜洋画劇場で淀川長治の