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愛した人はパイロット ソ連時代の私の恋

シベリア鉄道に乗ってロシアを周り、いろんな人の話を聞くプロジェクトМесто47。第四回目は、モスクワに住む一人の女性の物語です。まだソ連領だったウクライナの小さな村で青春時代を過ごした彼女。ある時、村にやってきたソ連空軍の青年将校と恋に落ちます。当時ソ連では一般人に外国への扉は閉ざされていました。しかし彼女は妻として夫の赴任先である諸外国へ帯同したのです。ベルリンの壁崩壊前の東ドイツでは心躍るようなこともあったものの、その心は、夫が空に飛び立つ度に不安にしめつけられていました。人を愛するとはどういうことか。彼女の物語はその一つの形を教えてくれます。

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夫は軍のパイロットでした。彼の人生は平坦ではなく、彼と人生を共にしたことで、私の人生もまた簡単なもではありませんでした。45年の結婚生活で、ジョージア、アゼルバイジャン、ロシア、ウズベキスタンに住みました。

夫は子供の頃からパイロットになるのが夢だったんです。チカロフが1937年にモスクワ、バンクーバー間の無着陸飛行を成功させた時は、国中の男の子が飛行士にあこがれたものです。そういうわけで、夫はウクライナのハリコフの航空学校に入学しました。

夫と出会った時、私は17歳でした。休暇で私の住むウクライナの村にやって来たんです。パレード用の軍服で着飾って、腰には短剣、頭には士官帽。彼から目が離せなかった。村中が尊敬の眼差しで彼を見つめていました。

最初に私をダンスに誘ったのは彼の弟だったんです。一曲踊った後に彼が来て「ボリス、ちょっと休んでろよ、俺がおまえの彼女と踊ってるからさ」結局一晩中彼と踊って、その後家まで送ってくれました。5月9日のことでした。その月の24日にはもう婚姻届けを出していました。まるで霧の中にいるみたいでした。

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実は、最初結婚届は受け付けられなかったんです。私はまだ18になっていなかったので。母親を呼んでくるように言われましたが、彼がなんとか話をつけて、結局受理されました。

家族を持つという意味が私にはよく分かっていませんでした。セックスについてももちろん何も知りません。ソ連時代にセックスは無かったんです。全てはベールでおおわれて、子供が知る由もありません。結婚した時は、一度でもそういう関係を持てば必ず妊娠すると思っていました。村では女の子同士でこんな会話をしたものです。「あんたんとこに3人子供がいるってことは、あんたのパパとママは3回もセックスしたってことね!」

できるのは村の家畜を観察するくらいです。オス牛とメス牛との間で何かがあって、その後子牛が生まれる。だから私はこう思ってんです。数年は夫と一緒に待とう。兄弟みたいにくらせばいいなって。

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一緒にベッドで寝ていると、彼は私に覆いかぶさってきました。私は恐くて恐くて。彼は彼で私が叫びだすんじゃないかとひやひやしていました。実は彼もそういう経験がなかったんです。結局2日間一緒のベッドで寝て、何もありませんでした。そうしているうちに休暇は終わってしまい、彼はアゼルバイジャンへ戻っていきました。

隊に戻った彼は、上官に休暇中に結婚したことを報告しました。すると、上官はすごいは剣幕でまくし立てます「なんてこった!17の小娘をこんなところに引っ張ってくる気か?ここはアゼルバイジャンだぞ!見渡す限りの乾燥地帯、劣悪な生活環境、おまけになんも無いときた。おまえいかれちまったのか?」

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実はそれまでに、モスクワ娘と結婚した隊員がいて、彼の新妻はここへやってきて2日後には逃げ出したそうです。だから、私がやってきた時は隊の全員が好奇の目で私たちを見ていました。いったいどうなるんだろうって。でも私は特になんとも思わなかったんです。本当に。その後すぐ妊娠して長男を産みました。食事はひどくて、だいたいは缶詰を食べていました。牛乳はなくて。だから、近所の女性にお願いしてバッファローのミルクを持ってきてもらいました。

アゼルバイジャンはその当時、最も荒廃した国の一つでした。街に女性一人で行くなんて考えられません。すぐに男性の集団に狙われてしまいます。だから果物を買いに市場に行く時でさえ武装した兵士に付き添ってもらっていました。

パイロットというのは特別な職業です。今まで、たくさんの人を見送ってきました。夫の航空学校の卒業アルバムを見ると、その中の3人に1人は墜落の末に亡くなっています。でも特別なことじゃないんです。昨日亡くなった仲間を今日弔ってやり、明日は自分が飛んでいく。休暇前には飛行感覚が鈍らないように、特別な空域でのループ飛行が義務付けられていました。

60年代にドイツに引っ越して来た時、西洋の暮らしぶりは目を見張るものがありました。ある日、夫が夜間飛行のシフトを命じられました。帰りはいつもより遅くなります。そこで私は女友達とベルリンの街に繰り出しました。彼女はドイツ語が話せたし、私たちは美しく、スタイリッシュで他のドイツ人女性と見分けがつかないくらいでした。もちろんこのことがバレてしまえば、24時間以内にソ連へ強制送還です。

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西ベルリンは驚きに満ちていました。私たちは気の向くままに街を歩き、レストランに入りました。席に落ち着いてしばらくすると、ウェイターがワインの入ったグラスを二つテーブルに運んできました。私たちは注文した記憶はありません。ウェイターはテーブルの向こう側にいる男性たちを指します。私たちは悩みました。どうしようかしら?もしワインを飲んだらその気があるって思われるかも。でも飲まなかったら、気分を害することになるかもしれない。結局、私たちは料理を大急ぎでかき込んでお勘定。ワインを一気飲みして店から飛び出していきました。

夫とは離婚寸前まで行ったことが二度ほどありました。最初は息子のことでです。80年代でした。当時、軍は慢性的な新兵不足に悩まされていました。戦争の影響ですね。軍はまず大学から学生を、さらに刑務所から受刑者まで解放して新兵を召集しました。息子は大学の一年を終えたばかりでした。夫は当時、軍で要職についていたので、息子を兵役から遠ざけることは簡単なことでした。でも夫は愛国者でした。兵役に行かせればいい。そう言ったんです。

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軍での初日、息子は身ぐるみはがされ、靴とジャケットを取り上げられました。さらにカミソリや石けんもです。ひどい新兵いじめが横行していました。私はその時一気に老け込んでしまいました。夫と離婚間際まで行ったのはそれが最初です。

二度目は、夫が血圧の問題でパイロットの仕事から外された時でした。私はあまりのうれしさに、それを隠すことができませんでした。もうこれ以上、彼の夜間飛行中、夜空に響くエンジン音がふつと消えるたび、止まりそうになる心臓をかかえ、彼を待たなくてもいいからです。彼は喜ぶ私を憎みさえしました。私たちの人生で最も困難な時期でした。でも夫は私のことをとても愛していました。時がすべてを解決してくれました。

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夫がいなくなって20年です。彼の亡くなった年がいつだったか思い出せません。彼は私の人生から消えてしまったんです。それまで病気なんてしたことがない人でした。それが急にガンが見つかって。7ヵ月苦しみました。昼も夜もずっと付き添って、二人きりでした。息子は私が夫の後を追って死んでしまうのではないかと心配していたみたいです。彼が亡くなった後打ち明けてくれました。

仮に人生をやり直せるって言われても、一日だってやり直したい日なんてないんです。それがたとえ、とてもつらい時期であったとしても。夫は子供たちに、ママは女性であり、一番重要な存在なんだと教えてくれました。子供たちは今でもその教えを守って私に接してくれています。

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私は夫を愛し尊重してきました。でも彼は少し違います。彼は私を崇めていました。誰かがこんなことを言っていました。「家族の二人、一人は愛し、もう一人はその愛を受け入れる」だから私は彼の愛を受け入れたの。

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読んでいただいてありがとうございました。新しい記事は毎週、火曜と金曜日に公開予定です。

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