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替えが効いてもあなたがいい

自分のしている仕事は誰でもできるし、いなくなったところで仕事はどのみち回る。人ひとり消えたところで社会や国の動静に影響はほとんどないし、自分の存在はこの世に必須ではない。自分は無価値な歯車にすぎない。そんな恐怖や不安を抱いたことがある人も多いのではないだろうか。

社会人は誰でも替えがいる

この話題になると思い出すのが、数年前にカズレーザー氏が受けたインタビューで「スティーブ・ジョブズですら替えが効いたから大丈夫だ」と言っている場面。具体的な内容は実際のインタビュー映像に任せるとして、大意は気楽に生きよう、なんとかなる、というポジティブなメッセージだ。iPhoneを産んだジョブズの代わりがいたのなら、自分の代わりだってもちろんいる。だからあまり気張るな、思い詰めるな、と。

しかし、裏を返せば恐ろしい一面もある。誰しもが替えの効く存在で、数年、下手したら数ヵ月もすれば何事もなかったかのように世界は続く。スティーブ・ジョブズですらティム・クックが後を継いだのだ。問題はそこで、皆が替えの効く存在なのであれば働く意味も生きる意味も無いのでは?という結論に至り、いわゆる実存的危機に陥りかねない(*1)。自分にしか出せない価値や意味があると人は信じていたいものだ。少なくとも、他の誰かに取って代わられる存在であると自ら望んで思う人はいないだろう。でも、いくら理屈をこねくり回したところで、その帰結から逃れることはできない。どんなに立派な人であろうと代わりはいるという、直視したくない事実だ。いくらでも取り替えられる部品である一個人に、どんな価値があるのだろうか。

私もたまに思う

私もたまに似たようなことで悩む。誇りに思ってる能力を他人が軽々しく超えてくると、自信を挫かれて虚しくなる。後からやってきたのに明らかに自分の数倍はできるヤツとか、英語力が尖りまくってるヤツとか、あるいは、自分のしたいことを実現している人を見ると、やはり心にダメージを負う。嫉妬というよりは、自分の能力不足や不甲斐なさを痛感してしまうのだ。

サッカーのプロ選手のボールさばきを見て、その技術の奥深さが分かるのは経験者だろう。なまじ何かに秀でると自分と他者のレベルの違いはよく見える。その差は嫌でも数字や実績で見えてしまう。仕事の現場やプラットフォームであれば、自分がいなくても何事もなく回る現場を目の当たりにして嫌気が差す。そして、そんなことをウダウダ考えてモチベーションが下がっていく自分を見て、「こんな些細なことを"アイツ"は気にしないだろうに!」と考えてしまう負のスパイラル。大学時代にも勉強できるヤツや文化資本の高い人を見ては脳内で悲鳴を上げていたので、昔からあまり変わってない。

替えが効いてもあなたがいい

社会の中の自分の立ち位置を考えたり、他者と能力を比べたりしない方がいいのは分かっている。が、ついつい意識してしまう。そういった評価に一喜一憂するのも時にはバネになるだろうし、一概に悪いとは言えない。問題はそこに自分の無価値さを見出すなどして、自己肯定感や行動力の低下といった実害が生まれる時だ。そのような実害を避けるためにどうしたらいいか色々考えてみると、一つは誰かに求められる理由を能力や損得以外に置くことのように思えてくる。

たとえば職場、家族、同級生など身の回りを思い浮かべてみよう。なかには心底どうでもいい人間や、むしろ消えてくれと願いたいような人もいるかもしれない。その一方で、何にも代えがたい人間関係や信頼できる仲間もいるだろう。もし現実にいなかったら、空想上の存在でもいい。そういう人々と関わるときに、その人の技能や代替可能性を考慮に入れることはあまりない(話が面白いとか、たくさん奢ってくれるとか、付き合う上での利点はあるかもしれないが)。
この考え方をもう少し広く社会に当てはめてみる。もちろん、仕事に必要な最低限の能力や社会性はほしい。しかし、例えば食堂のおばちゃんは能力が高くてテキパキとしていても、おしゃべりで利用者を明るくするナイスウーマン(?)でも、正直どっちでもいいんじゃないか。掃除をしてくれるおっちゃんは、大して施設を綺麗にしてなくても毎朝挨拶をしてくれたら、それだけで価値あるものではないだろうか。

そもそも世の全員が全員スティーブ・ジョブズにはなれないので、ジョブズになることも要求されない。より市場価値の高い人間を目指し続けても限界はいつか来る。社会で他人から求められている能力には、意外にも人格や誠実さ、仕事のしやすさも含まれている。人当たりの柔らかさ、納期を絶対に守る真面目さ、あるいはそう思わせるだけのハッタリでもいい。「あの人と仕事がしたい」と相手に思わせれば、世界一の技能を持っていずとも自分の価値は上がるのだ。あるいは、活躍の場を移すことでどこかの誰かにとっての新たな価値になるかもしれない。唯一無二の存在でないわれわれ凡人は、他人から求められる「良い人であること」もまた重要な能力のように思えるが、いかがだろうか(*2)。

いるだけで助かる

とはいえ、男性がフラれるセリフの定番「あなたは良い人だけど」(*3)にもあるように、当然ながら人格の良さだけではうまくいかない。あくまで能力以外のアプローチで人間が生み出せる価値を考えた結果だ。しかし良い人でいるのは大変なので、努力も何も要らない都合の良い理由として、代わりの人を探す時の補填のコストを一旦考えてみる。

職場であれば欠員補充のために採用や教育に時間が割かれ、穴が埋まるまで数ヶ月、あるいは数年かかる。そのための労力は、人が辞めなければ発生しなかったもの。そしてあなたが地球上からいなくなったら、まず男女の配偶子を揃えて子供を儲ける手間が出てくる。そこから何十人もが20年近く養育・教育に携わって、何千万円というお金がかかりながら、出てくるのは人間一人分の損失が埋まる可能性。なんと大変なことか!

ティム・クックだってキノコみたいにそこら辺の平原に生えてたわけではなくて、膨大の時間と労力をかけてジョブズの後釜として選出されたわけだ。それが見えづらいから「ジョブズですら…」と言えるだけで、そうそう簡単に誰かの代わりが見つかるわけではない。歯車が欠けたら新しい歯車を組み込む手間がある。自分が替えの効く歯車のような存在だとしても、どれだけ退屈な仕事でも、続けるだけでその手間と損失を回避しているといえないだろうか。代わりがいくらでもいたとしても、代わりを探す必要性を生まない存在。まさにいるだけで助かる。生きてるだけで偉い……まで言うのは少し無理があるかな?

自分の価値を感じられるかどうか(あるとは言っていない)

さらに言えば、人間の価値の尺度はさまざま。たしかに現代で価値ある人間とされるのは、社会的な地位が高く生産性のある人材だろう。向上心を持ってその土俵で他者と勝負していくのは一つの選択肢だ。でも、そうじゃない人で素晴らしい人間なんかいくらでもいる。社会全体、地球規模で見たら無価値な人間だって、誰かにとってはかけがえのない存在。クサすぎて書いていて鼻が180度曲がりそうだが、本心からそう思っている。
誰かから、クライアントから、とにかく必要性を他者から見出されるのは自分の価値を感じる一番手っ取り早い方法だ。世界のスティーブ・ジョブズじゃなく、誰かにとってのジョブズになればいい。ものすごく雑に言えば、関わる人間全員と親友になってしまえば、自分の価値について悩むこともなくなる。

一方で、他者に自分の価値基準を全て任せるのは危険だ。自分の価値を自ら感じて内側から作り上げていかなければ、心の地盤が不安定で脆いものとなるだろう。あるいは天涯孤独で他者からもらえる価値がない、といった事情もあるかもしれない。その場合は、なんらかの形で自分が無価値ではない理由を探して、自分に言い聞かせて、自分で自分の価値を認めるしかないだろう。社会や地球規模で自分の価値を見出せないなら、スコープを小さくして身の回りや自身を注意深く見つめるか、更に大きく捉えて神性に意味を見出すなど、落としどころを見つける旅路はいくつも道筋がある。あるいは逆に全ては無価値というニヒリズムに至り、結果的に自分の現状を受け入れることもあるかもしれない。要は自分に価値があろうが無かろうが、他人が絡もうがなかろうが、大した問題ではない。最終的に大事なのは、自分の価値を何かの形で実感できること、あるいは自分を否定しない形に思考を持っていくことだと思っている。

人が社会を作る

社会参画の形や人間の価値の測り方は人それぞれだ。お金を持ってれば偉いのだから、持ってない人を見下してもいいと思ってる人だっている。そんな鼻持ちならないクソ野郎に合わせる必要がないように、社会に必要とされる人間かどうかという指標で考える必要もまたないのだ。集団は大きくなるほど強靭で変化に強くなるから、身も蓋もない言い方だが、自分が替えが効くかどうかで考えない方が精神衛生上いい。それができていれば最初から苦労しないけどさ

しかし、そもそも人間がいなかったら社会は成り立たない。なのに、社会が人の価値基準を支配して序列をつけるなんて、ちゃんちゃらおかしい話だ。あくまで人が作った世界なのだから、何に重きを置くか、何に矜持を持つのか、見失わずに自分で決めたいところだ。

雑記

と、ギリギリ社会人と呼べる人間が申しております(*4)。半分ぐらいはモチベ上げるために自分に言い聞かせてる。
「社会は所詮こんなもの」と割り切るのも一つの手だけど、所詮の一語で片付けられるものに支配されるのは癪だ。心理的負担を減らすにも、社会との付き合い方を考える方が悩まないしなあ。なので自分の価値を見失いそうになったら、ゼロかイチかじゃなくて比重や立ち位置で考えたい。それでも落ち込む時はあるんだけど…。

あと、実存的危機のところで思ったこと。推し・推されの文化やパラソーシャルな関係って、自分の価値を他人に仮託してる部分がある。最近ホストの売掛金が社会問題になってるけど、悪質さ論外として自分の価値を何に・どこに見出すかって所も近い部分がある。掘り下げたら面白そうなんだけど、そもそも有名VTuberを見て、未だにホロライブとにじさんじのどっちに所属してるか分からない自分が雑に扱っていい話題ではないし、冗長になるので書くのをやめた。AIとか出てきて、なおさら自分の価値を感じづらい世の中になってきたような気がする。

おわり。

(*1) 実存的危機はexistential crisisの訳語であり、自分の存在や人生の意味に根本的な危機を感じるという意味の心理学・心理療法の概念………らしい。というのも、明確で信頼できる定義が見つからず、心理学うんぬんもWikipediaの記述にすぎないのだ。J-Stageで「実存的危機」で検索すると、文学、宗教、哲学や教育といった分野の方が多く見つかるし、件数は50件と少ない。よって学術用語とは考えにくい。実存、実存的、はググれば哲学的概念の解説は出るものの、実存的危機という形では辞書にも載っていない。一応「実存的危機 提唱」と雑に検索すれば小沢一仁氏村澤和多里氏の論文が出てくるが、エリクソンの提唱した別の概念と実存的危機という語を紐づけて論じているだけで、答えは出てこない。なので、ぶっちゃけ出典はよく分からないが、調べた限り言葉の意味はおおむね共有されているとみてよさそう。意味や出典があやふやなまま言葉を使うのはバツが悪いので、頭に「いわゆる」とつけてごまかした。

(*2) 逆に重宝される能力があるがゆえに、人格がオワっててもなんだかんだ許される人もいる。同じ能力の人が現れたら真っ先に消されるし、人が辞める原因にもなるので反省してほしい。しないって分かってるけどさ!

(*3) 似た言葉に「優しい人だけど」がある。大概は良い人とも優しい人とも思われていなくて、好意を断る本当の理由の前にいちクッション置いてるだけだぞ。悪質なデマゴーグなので、フラれた悲しみは日本政府に向けよう。

(*4) 固定給はないけど、一応収入を得て生活している。一応病人なので社会復帰中。なお、この注釈を書くことで5000文字を超えることに気付いたから書いただけで、隙あらば自分語りをしたいわけではない。

拳こそが正義



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