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パリ24時間(2)11区のヴィラ

 パリの東側、メトロ8番線のバスチーユとレピュブリックの間に、「レ・フィーユ・デュ・カルヴェール(十字架修道院の尼僧たち)」と呼ばれる小さな駅がある。1箇所だけの出口はフィーユ・デュ・カルヴェール緑道(ブールヴァール)に開いており、ブールヴァールから西に短いフィーユ・デュ・カルヴェール・ストリートが伸びている。
 この一帯はマレ地区からオーベルカンフを結ぶ点なので、土曜はパリのクールな30代で賑わう。仕事をしていれば、何々エディター、デザイナー、エンジニアと呼ばれる職種であり、学生なら完全に実益から切り離された社会学や経済学を挙げる。男は総じて短い顎髭を刈り揃え、女は長い髪を黒く染め、ヘアアイロンをかけている。さらに画一的なことには、男女ともに高級な白いスニーカーを履く。そして英語とフランス語を同時に使う。
 また、緑道に沿ってシルク・ディヴェール劇場(ウィンター・サーカス)やメリーゴーランド付属の小遊園地があるので、日曜の日中には、風船とアイスクリームとベビーカーがその辺に溢れることになる。

 このように「フィーユ・デュ・カルヴェール」はパリでも一番人の多い場所の一つだが、その名を冠するヴィラについては、誰も聞いたことがないようである。
 十字架修道院ヴィラは、ブールヴァールから離れて、石畳が陥没した路地の奥にある。細く高い鉄格子の門扉がその入口を示しているものの、パリでお馴染みの青地・白文字のネームプレートが門の内側に、しかもかなり高い位置にかけられているものだから、ちょっと見ただけではわからない。


 しかし、まずここで、「ヴィラ」とは何かを説明しておこう。
 パリの住所にある「ヴィラ」とは、連棟戸建が並ぶ通りを示す特殊な言い方だ。一種の長屋形態なのだが、違うのは、それら戸建が並んでいる道が私道である点である。基本、住人と住人に呼ばれた人たちしか侵入できない。戸建の家々は世襲で受け継がれているケースが多く、そのため、一旦門をくぐれば、別世界の印象がある。1920年代芸術家アトリエの集合が姿を現すこともあれば、19世紀のグランブルジョワの別宅群が現れることもある。
 明らかにそうとわかる高級住宅街としては、17区のヴィラ・ヴェラスケスがある。シテ島のコンシェルジュリーにも負けない間口の巨大な門扉は黒い鉄にゴールドで縁取りされ、フィレンツェの宮殿さながらの壮麗な建物が並んでいるのが、通りからよく見える。
 とは言え、実際のグレードとしては、この種のヴィラは16区のヴィラ・モンモランシーには及ばない。
 パリ最高のヴィラ、モンモランシーの起源は第二帝政に遡る。しかし、遠目には「チャーミング」なだけの場所に映る。簡素な門扉と藤棚やバラ園が邸宅の全容を隠しているからだ。通りからは切妻屋根が見える程度だが、その僅かなシルエットだけでも17世紀建築の純粋さは疑えない。近代ブルジョワジーが残したイミテーションの洪水の中で、周囲数百メートルの空気を浄化する効果がある。ともかくも、ここには18世紀から確実に19世紀の金融ブルジョワジーへ、19世紀から20世紀の産業界へと受け継がれた莫大な資産が隠匿されている。純粋な古典主義建築は、あたかも泡立てクリームのようにそれを覆い隠し、いかがわしくも清楚な外見を作り出しているのである。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Villa_Montmorency

 さて、パリにはこうしたヴィラがどの区にもある。17区や16区、あるいはモンマルトルといったいかにもな場所ばかりではなく、かつてのスラム街跡がひしめくベルヴィルや、セックスショップと安物の土産物屋が軒を塞ぐピガール、または19世紀のドレが描いた職人街であるレピュブリックやバスチーユの真ん中にも、フォッシュやヴィクトル・ユーゴーなどのこれ見よがしの大邸宅街以上に高級な一角が潜んでことがある。

 十字架修道院ヴィラもそうした「隠れた」ヴィラの一つだ。日中は誰も気がつかない。夕闇が立ち込める頃、路地に迷い込んだ通行人の目に、魔術のように姿を現す。
 夕闇が立ちこめ、路地の石畳の保存状態は悪いのに、なぜか足元がぐらつかない。その不思議に通行人が気づく時、すでに路地は暖かく透明なオレンジ色の光の中に浸っている。パリの他の場所に比べて、ここでは光の密度が高いようだ。街灯が新しいからだ。交錯する光の筋は一点を照らし出している。路地の突き当たりの門扉だ。通行人はようやく、この路地が店舗の影に打ち捨てられた古い裏道に開いているわけではないことに気づく。
 門扉の細かい装飾が明らかになるにつれ、通行人の驚きは大きくなる。サビひとつなく黒光りした格子には、計算された優美さで緑の蔦の枝が絡まっているが、その枝と葉の繁みの半分はなんと彫刻なのだ。実際の植物と彫刻の植物が一体となって門扉の格子を飾り、その交錯した曲線のデザインを作り出している。街灯に浮かび上がる門扉は、繊細な陰影のみならず、その構成自体がアート作品のようなものだ。
 さて、自然と人工の蔦の茂みを透かしてみれば、柵の向こう側には整然とした石畳が続いている。小道の両側には緑の植栽が溢れている。あちら側の壁に、蔦の繁みの下からに「ヴィラ・デ・フィーユ・デュ・カルヴェール」の青と白のネームプレートが覗いている。その隣に、小さく瞬くものが見える。音もせず録画している警備カメラであろう。目を下ろせば、精緻な装飾が施された門扉のハンドルの隣にプッシュフォンのパネルがある。
 ゲートの向こうは決して異世界ではないが、招かれなければ存在さえも知ることができない世界であることは確かだ。路地の魔法に魅惑を感じていた通行人は、ぼんやりとした圧迫を感じて門の前に立ち尽くす。

©Max Avans : https://www.pexels.com/fr-fr/@maxavans/

 
                 ✻

 4月12日、イースター・マンデイの翌日、22時前。すぐ隣のオーベルカンフ通りからヴォルテール通りにかけて年金デモとそれに乗じたお祭り騒ぎが佳境を迎えている最中に、『ニューヨークタイムズ』文化部デスクでパリ出張中のジャン・フランソワ・リボーは、教えられた六桁のコードを打ち込み、ヴィラのドアを開けた。

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