見出し画像

パリ24時間(7)異端審問者の午後

 急に風が冷たくなったような気がした。時間はそれでも午後4時をまわったばかりだ。
 ルチアが去ったル・ドルシェステルのテラスで、オルガは書類鞄の底から四つに折られた一枚の紙を引き摺り出した。それは、今年の工芸学校(アールゼメチエ)の奨学金候補者のリストだった。2週間前、審査員のオルガにも通達されたのだが、オルガは候補者をざっと眺めて、そのまま放置していたのだった。審査などないことはわかっていた。今年の合格者はエコールノルマル・サン・クルー校出身のイザベル・ラトゥールになるはずだ。とは言うものの、公募しているという建前上、審査員にはまだ別の候補者を推挙することが許されてはいた。オルガはもう一度候補者リストを眺めた。40名あまりのアンヌ・フランソワーズ、マリー・ロール、ジャン・ピエール、アントワーヌ・ルイたちの間に、探していた名前が見つかった。純白のリネンに一点ついた染みのような「ファティマ」。(姓は「ベジャウイ」や「ブアジズ」とか、そういう類。)ザラザラとした子音の異質さに加えて、連絡先として記載されていた住所がさらに目立っていた。ポール・ブールジェ団地、H棟、11階、アパルトマンB。知らない人とてないイル・ド・フランスの問題シテ(移民団地)の一つ。これだけでもファティマの30年に満たない人生が透けて見える。粗暴で無学で怠け者の父、自分の名も書けない母の間に生まれ、パリ郊外の殺風景な2LDKで、12,3人の兄弟姉妹の騒ぎに背を向けて、たった一人フランス語で最高点を得てきた。学業によって出自を超えられると信じた、ある意味典型的なbeurette(マグレブ女子)。いやはや、と顧問達は笑いあっていたものだ。身の程知らずなのか、世間知らずなのか、いずれにせよ、滅多にお目にかかれない候補者だよ、と。オルガはファティマの名を赤で囲んだ。明日朝一番で委員会に電話しよう。ファティマを推挙すると宣言しよう。そうよ、移民の何が悪いというの。私だって母はロシア移民。ファティマがエリート校に行くことができなかったのは、彼女のせいじゃない。偏狭なフランス社会のせいじゃないの。恥ずべきことだわ!偉大なる共和国は、彼女のような苦学生こそ支援すべきなのに!
 言うまでもなく、オルガはファティマが選考されるなどこれっぽっちも信じていなかった。もっと言えば、そんなことはどうでもよかった。オルガにとって肝腎なことは一つだけだった。アールゼメチエの役員全員が、彼女の差別反対の立場の証人となってくれることだ。(彼女が思い描く法廷とは、パリの大学人の自宅サロン以上のものではなかったのだが。)やるべきことを見つけた彼女の心はようやく落ち着いた。
 携帯を見た。着信履歴はない。午後の間、デイケア・センターから一度も連絡はなかった。アニータはうまくやってくれているのね。ミシェルは私といるより楽しんでいるかもしれないわ。もう私なんて用無しかも。
 目の前のテーブルには、アフタヌーン・ティー・スタンドが2台残っていた。夕方の風が一輪挿しのバラの花びらを震わせた。ルチアはスコーンをほとんど食べていなかった。店の自慢の一つである繊細なデヴォンシャー・チャイナに入ったクロテッドクリームも手付かずのままで、表面がすっかり乾いていた。招いてもらって失礼な、とオルガは思った。ここはパリでも由緒ある正統派英国ティー・ハウスなのよ。でもまあ、格は落ちたわね、それは確かだわ。30分以上待たせた上に、客に色目を使うウェイターなんてこれまで見たことないわ。スコーンだって、あんなに期待していたのになんだか味気なかった。なんという失望!そうよ、ルチアはがっかりしたのよ。
 去ったばかりのルチアの面影が目の前から消えなかった。抗戦の構えにある時の癖で、オルガは唇をキュッと横に引き結んだ。すっきりしない気持ちが残っている。何かやましいことでもあるみたいに。でも、何も悪いことはしていない、事実を事実として述べただけ。それにニコルも言ってたじゃないの、こうする方が結局ルチア自身のためにもいいんだって。老教授の色ボケの対象になって(愛されているとでも思っているのかしら!愚かな !)、得るものなんて何もない。むしろ失うことの方が多い。
 オルガはしばらくルチアのデメリットを考えてみた。
 まず、ランソンみたいな偉人を不倫に引きずり込んだとわかったら、フランスの友人はいずれ彼女を見捨てるだろう。私だって友達を続けることはできないもの(でも翻訳は出してもらうけど)。クレールの時がそうだった。教授との関係が公になった途端、それまでランソンの周りに集まっていた研究グループは解散した。その時あった企画は白紙に戻った。クレールは孤立した。彼女は恋と業績を手に入れた代わりに、友人と社会的信用を失ったんだ。(事実婚だとか自由恋愛だとか、フランスの特権みたいに言われているけど、あんなの全部マスコミが広報のために作り出した幻想よ。今でも19世紀と同じように不倫は社会の呪いを受ける。フランス人は基本的にカトリックなんだから。)それにしても、あの時の妊娠はタイミングが良すぎた… さっさと既成事実を作ったんだろうという噂もあったほど。気がつくのが遅すぎた。クレールは涼しい顔で私に接していたし、教授のお気に入りくらいにしか思っていなかった。ああ!もっと早くに私が察知していれば、阻止できたのに!でも、二度同じことはさせないわ。今回はだまされない。
 ま、ルチアはクレールのようなことは絶対できないから、それほど難しいことではないけれど。見てごらんなさい。あの浅黒い顔、短い手足、大きく見開いた目。素朴で善良な田舎者ってとこね。こんな娘はいずれランソンにも飽きられて、世間にも見捨てられ、蔑みと搾取の対象になるだけよ。そう、すべてはルチアのため。
 
「先生と何があったの?何を約束されたの?どんな汚い手を使ったの?この底辺の奴隷が、ちょっと親切にしてやっていればつけあがって!」
 
 オルガの心底を吐露すればおそらくこのような言葉になっただろう。しかし、さすがにそうは口にしなかった。その代わり、前から後ろから、右から左から、チクチクとあてこすりの針を刺し続けた。ルチアはオルガの突然の敵意に驚き、なんとか話を逸らそうと試みた。年金デモの話題を出してみたり、戦争の話をしてみたり… でも全ては無駄だった。オルガは自分の望む方向から会話が逸れることを頑として拒絶した。そして、あらゆる機会に皮肉めいた一言をさしはさんだ。ある時、オペラ座改装の話になった。ルチアは学生時代よく通ったと語った。学生料金で舞台前の席が取れた時代のこと。ある日、若い銀行マン夫婦と隣り合わせになって、楽しく会話をした。10年後、その人がテレビに映っていた。フランス大統領選の最終の討論で、極右のマリーヌ・ル・ペンと向かい合っていた。かつての銀行マンは、エマニュエル・マクロンだったのだ。なんて偶然!ルチアは無心に笑った。オルガはその顔を冷たく見つめながら、こう切り返した。

「呆れた、あんたって本当に有名人が好きなのね!将来の大統領だとわかっていたらどうしたの?マクロンのことも追いかけて迫ったの?『私、奥さんがいても気にしません』って?ま、あんたじゃ無理だっただろうけど!」
 
 あたかもそれが面白い冗談でもあったかのように、オルガは口を大きく開けて笑った。一方、笑っていないその目は、獲物を見定める蛇の目のように、分厚い眼鏡の奥でますます細くなった。あまりにも程度の低いあてこすり、あからさまな侮辱に、ルチアは体をびくりと振るわせた。青ざめた顔には、礼儀正しい微笑が凍りついたまま残っていた。
 あれは、ルチアが立ち去る寸前のことだっただろうか、それとも着いたばかりの時だっただろうか。(オルガは興奮のあまり、テーブルの上に置かれていた料理さえ見ていなかった。自分がどういう力づくのレトリックでルチアを説得しようとしていたのかなんて、なおさらおぼえていない。)「ランソン略奪事件」の最大の見せ場、すなわち半身不随になった教授の糟糠の妻のところに若い不倫相手が乗り込み、離婚届にサインしろと責め立てたという、オルガがこれまで何十回となく、誰彼なしに語ってきたエピソードを、もう一度初めから話して聞かせていた記憶がある。
 ルチアは怯えたように目を伏せていた。その上体は、オルガから逃れようとするかのように、徐々に後退しつつあった。抵抗しないルチアを前に、オルガの中に盲目的な攻撃の衝動が目覚めた。小さな兎を穴から駆り出し、追い回し、いたぶって喜ぶハンターのような。出来るだけ意地悪な顔を作りながら、オルガはこう言った。

「略奪なんてまともな人間にできることじゃないわ、そう思うでしょ?」

 ようやくルチアが口を開いた。弱々しく、掠れた声で、苦しそうに。 

「私じゃない、私が始めたことじゃないわ、オルガ…」
 
 (やっと尻尾を出した!)オルガは心の中で小躍りした。ここで、「始めたって何を?」みたいな質問は絶対にしてはいけない。そんなの愚の骨頂だ。実際は何も知らなくても、すでにあらゆる情報を手に入れているといった風を装わなければならない、これは鉄則。なぜって、もし本当に「何か」があるのだとしたら(と思った途端、オルガの胸は初めて疑惑を抱いた時のように痛んだ。その「何か」とは、「神」がオルガに隠し事をしていたという揺るぎのない証拠なのだ)、ルチアが自分からペラペラと話し出すだろうから。秘密が重いほど、もう隠せないと思った途端、人はおしゃべりになるものだ。
 オルガは口調を変えて、今度は人生の先輩らしく、親身に心配しているかのように話し始めた。

 「ねえ、先生には今、一人で抱えきれないくらいの悩みがあるのよ。だけど先生のような立場の人は、誰に何を言うかをいつも気にしていなければならない。だからフランス社会と何の関係もないあなたの前で気が緩んでしまったのよ。わかるわよ。もちろん混乱するわよね。いろいろと打ち明けられた身としては。特別扱いされていると思ってしまうわよね。だけど違うのよ。それが私たちの役目なの。自分を無にして、先生の愚痴を聞いて差し上げること。それで少しでも先生の心が軽くなるならお安いご用でしょう?」

 中庭の噴水がコロコロと音を立てていた。午後の太陽は傾き始めていた。ルチアは上体を背もたれに預けたまま、はっきりとした意思表示には見えないように、オルガから微妙に視線をそらしていた。その目は緩やかに伸びる庭の影を追っているようだった。噴水の向こうはバラ園で、散り残った冬バラの饐えたような赤が点々としている。

 楽園のような庭園だけれど、塀の向こうはチュルビゴー通り。昨日デモ隊が通ったばかりのセバストポール大通りから数百メートルしか離れていない。シャトレからティーハウスに来る道には通行止めがまだたくさん残っていた。ところで、彼女はどこから来たのだろう?1週間前に着いたと言った。今日までパリにいたのか? ランソンはその間どこにいた?おお神よ!彼もずっとパリにいた!

「前の奥様のことだけじゃない、先生にはご持病があってね… いえ、これはプライベートな話だから、あなたには言えないけれど」
「知っているわ、4年前の慢性骨髄性白血病のことでしょう。ここ1年は新治療のおかげで安定していると聞いたわ」

  オルガは度肝を抜かれて、黙ってしまった。驚きを悟られてはならないとわかっているけれど、次の言葉が出ない。どうしてルチアがそんなことを知っている?ランソン自身が話したのか?あり得ない!でもそれ以外、どうやって知りえよう?本人から出た情報でなければ、他に誰がそんなことを部外者の彼女に話すだろう?ではやっぱり…?ああでも、嘘だ!嘘だ!
 4年前、「神」ランソンは脾臓の発作を起こして自宅で倒れ、運ばれた。しかし、オルガがそのことを知ったのは事故から半年以上経った後のことだった。それも、ランソン本人から聞いたのではない。その頃、ランソンに何度電話しても繋がらなかったことや、ランソンの腹心のカッサン(パリ第7大学社会学)が不審な動きを見せていたことから(行く場所を言わずに消えることがあった)、何かがランソンの身に起こったと鋭く察知したオルガは、カッサンをソルボンヌ近くのカフェで待ち伏せし、責め立てて(今ルチアにやっているように)、吐かせたのだった。「どうして私にご相談くださらなかったんですか」となじるオルガに、ランソンはいつものように軽やかに、そして残酷に答えた。「そりゃそうさ、内輪の話だからね」。
 夜空を明るく照らし出す月のように、テーブルの向こうにルチアの顔が再び現れた。オルガはふと見惚れた。それ自体が生きて蠢いているもののような黒い髪を背景に浮かび上がる完璧な楕円形の顔。弧を描いた眉、刻んだような瞼、艶やかで深い表情の目、オリーヴ色の滑らかな頬。ブルーグリーンのVネックが日焼けした喉元を切りとり、そこには大粒のガーネットのペンダント。小さな顎の上には若々しいふっくらした唇。少し微笑んだだけで白い歯がこぼれる。確かに、こんなに豊かであどけない表情の大人の女はフランスにはいない。ルチアの出現はいつも軽い衝撃を伴う。オルガ自身、彼女には何度も会っているはずなのに、毎回なぜか初対面のような新鮮さを感じる。ルチアがいるところには人が集まってくる。今だって、窓の内側に数人のウェイターがたむろして、二人をチラチラと眺めている。なぜだろう?絶世の美女というわけでもない、靴も服も安物なのに。これが「エキゾチックな魅力」の威力なのか?おそらくそうだ。彼女はきっと、本国以上に外国で何割か増しの評価を受けているに違いない。
 そう、ルチアの強みは「肉体の若さ」と「エキゾチズム」。オルガはそれ以上の理由を探るつもりはなかった。フランス人インテリの明晰な精神にとって、自然のカラクリによって説明できない謎はない。でも、今日はなぜか違った。オルガの心からもやもやした気持ちが吹っ切れなかった。数値が示す若さや、南米の混血の肌が掻き立てる妄想を差し引いても、それ以上の何かがあるような気がした。二十歳の時すら、オルガ自身はこんなに美しくなかったのだ。養女アガートについて考える。比べるまでもない。25歳であろうと、60歳であろうと、アガートの事務員然とした凡庸な容貌は、道ですれ違う誰一人振り向かせない。娘もまた美とは無縁だ。
 オルガの顔は今にも泣き出しそうにゆがんだ。しかしそれは一瞬のことで、すぐに厳しく険しい糾弾者の表情に戻った。無意識にグイと顎を相手に向かって突き出し、眼鏡の奥の小さな緑の目をさらに細めた。絶対に負けられない。その言葉が彼女を奮い立たせていた。負けるはずがない。なぜなら、どのような道徳規範に照らしても、絶対的に正しいのは彼女だからだ。結婚と家庭の絆は神の前で永遠で、これ以上神聖なものはない。それを守ろうとしている私が、この浅黒い顔の見せかけの自信に気圧されて黙ってしまったなら、それはすなわち、道徳が不道徳の前に、正義が不正の前に、真実が嘘の前に退散することになる。そんなことがどうして許されよう?
 一瞬ひるんだオルガだったが、すぐに快活な声を張り上げて続けた。

 「そうだったわね!誰でも知っていることだったわ。先生がお喋りなのは今に始まったことではないけれど」

  ルチアは黙っていた。その静かな目は、そうかもしれない、でもそれは私以上にあなたには関係のないことよね、と言っているようだった。オルガは無教養な若者特有の目つきをそこに見た。マリー・テレーズやマリー・ロレーヌやジャン・シャルルのような若者のことではない、ナシマやアブドゥルなんて名前を持つ若者の目だ。文化の厚みを理解しない彼らは、言外のメッセージを受け取ることができない。自分自身の取るに足りない経験に固執して、見たこと・聞いたこと以上のことを想像できない、即物的で、頑迷で、ふてぶてしい。この娘、自分が悪いなんて思っていない。それどころか、ランソンについて私の知らないことまで知っていると知っていて、私を馬鹿にしているのかもしれない…

 「そう言えば、ラスパイユの先生の家にはフィリピン人の家政婦がいたわ。奥様があんな風になられる前… フランス語は話せなかったけれど、先生はことさらに気に入っておられたわ。 もしかしたら、先生にはそういうところがあったのかもしれないわね」

  ルチアが怪訝そうな顔をした。 オルガははっきりと音節を区切って、叩きつけるようにこう言った。

「人間よりペットを大事にする人がいるでしょ。同じ原理よ」

  ルチアの静かな目が曇った。数秒という長い間、彼女は口を軽く開けてオルガをまじまじと見つめていた。オルガと言えば、言いすぎたことは重々承知していながら、それが何よ、という気持ちになっていた。どんなリスクがあるとしても、せいぜい涙まじりの罵倒や、コーヒーをぶちまけられるくらいのことだ。翻訳を打ち切られるかもしれない?スペイン語の訳者なんて山ほどいる。あるいは、ルチアがさっさと席を蹴って出ていくという可能性もあった。しかし、パリのアカデミズムの陰湿な権力争いを長年見てきたオルガには、恐るるに足りる相手とそうでない相手の見分け方が身に染み付いていた。この娘は人を信じすぎる。虐げられてなお、自分が悪いと思うタイプだ。しかも誰も後ろ盾がいない(家庭のあるランソンの気まぐれな寵愛などなんの後ろ盾でもない)。ここで踏み潰しても問題はない。
 ルチアが再び目を伏せた時、オルガは心の中で快哉を叫んだ。電話のランソンの声が記憶に蘇った。「繊細な女性だ。カモシカみたいに鋭敏だ…」何が鋭敏よ、鈍感そのものじゃないの。先生には何もわかっていない。
 攻撃の衝動がさらに燃え上がった。一瞬でも負けたと感じたことも許せない。この女の根拠のない自信を打ち砕いてやる。自分が誰より劣った存在なのだと思い知らせてやる。二度と鏡に映った自分の顔を見ることができないくらいに。

 一方、ルチアはオルガの敵意に驚いたものの、その憤懣には同情を禁じ得なかった。74歳のオクターヴ・ランソンほど感情が豊かで(ほとんど子供のように)、その周囲への発散を止められない人に、ルチアはこれまで出会ったことはなかった。年齢によるものかもしれないし、退官して人間関係の拘束がなくなったことが理由かもしれない。あるいは、それほどに彼の孤立は深いのかもしれない。社会からの孤立というより、自分自身の人生からの孤立が。あの日以来、彼は毎日ルチアに電話をかけていた。たった一日ルチアが捕まらなかっただけで、彼がどんな騒ぎを起こしたのか、聞かなくても分かった。
 もしも、オルガの言う「永遠の友情」がその1000分の1でも真実であったとしたら(オルガはルチアにあらゆるセンチメンタルな友情と忠誠の誓いを立てていた)、ルチアが老教授との出会いにおいて経験した不思議な心の変化について、よりしんみりと話し合うこともできただろう。もとよりルチアには家庭を壊そうという気などなかった。ただ、老いた一人の夢見る魂の中に、それまで想像もしなかった暗さの闇と輝く光を見てしまったのだ。ランソンとしては、若い女というだけの理由でルチアに惹かれたのかもしれない。しかしそこから始まったのは、紛れもなく新しい情緒の世界だった。その世界に世間で通用する形式を与え、既存のカテゴリーに合致したものとして公表するべきかどうかについて、ルチアの答えは決まっていた。ノーだ。このような豊かで、豊かなだけに繊細な関係は、制度的な形式の拘束を生き延びることはできない。芸術家の才能をふんだんに持つルチアの直感はそう言っていた。
 つまるところ、制度と形式を何よりも大事にするオルガにとって、恐れることは何もないのだった。また、彼女にとってこれほど理解しにくい関係もないだろう。そうわかっていたからこそ、ルチアはオルガの敵意を受け止め、午後の間ずっと続いた針の筵のような状況を耐えてきた。オルガに怖がらなくてもいいと伝えたい、ルチアの願いはそれだけだったからだ。

「オルガ、私はその家政婦さんのことを可哀想と思わない。彼女をペットと呼ぶ人の方がよっぽど気の毒だと思うわ」

 そう言いながら、ルチアの後退していた上体はテーブルの上に戻っていた。背中をやや丸めて、両肘をテーブルに垂直に立て、緊張した腕の先の両手を握りしめていた。低い声で、何かを懇願するように、ルチアはオルガに囁いた。

「ランソン先生の昔の話だって、どうしてクレールがそこまで悪者にならなければならないの?3人のうち一番犠牲を払ったのは彼女じゃないの?」

 やっと!オルガは喜んだ。やっとルチアがランソンの名前を口にした。ようやく核心に入れるかもしれない。ミシェルをデイケアにまで入れてここに来た甲斐があったわ!元気を取り戻して、オルガは答えた。

「呆れた!ふざけるのもほどほどにして!クレールは先生の妻の立場が欲しかったのよ。そして手に入れた。何の不満があるというの?一番の被害者は誰がどう見ても奥様じゃないの」
「奥様のことだって、本当にクレールのせいでランソンさんとの縁が切れたのかしら?周囲がこんなふうに騒ぎ立てたからじゃないのかしら?」
「あのね、もう一度言うけれど、奥様と先生の縁が切れたのはクレールの嫉妬のせい、彼女が奥様に二度と先生に連絡するなと脅しに行ったからよ!奥様がそう言ったわ、一言一句この通りにね。私は一度だって事実以外のことを言ったことはないわ!」

 しかし正直、オルガにとってクレールやランソン夫人の話はもうどうでもよかった。知りたいのは、最近ルチアとランソンの間に起こったことだけ。それもあらゆる微細な詳細にわたって。今のオルガなら、二人の何十冊分の日記でも一晩で読み通すことができただろう。
 ルチアは諦めたように頭を振った。

「お願い、これ以上知らない人の悪口は聞きたくないのよ、オルガ」

 わかったわ、とオルガは心の中で返答した。それならお互い知っている人の話をしましょうよ。洗いざらい話しなさい。そして認めなさい。どれほど自分が苦しんでいるかを。あなたも私と同じ立場だってことを。

「じゃあ単刀直入に言うけれど、先生の言うことをそのまま受け取ってはダメよ。彼は絶対今の家庭を捨てないわよ。それにあなたはクレールにはどうあってもかなわない」

「そんなこと…」とルチアは言いかけた。

 オルガは息を殺し、目を細め、さらに顎を突き出して待った。

「そんなこと、望んでなんかいないわ。わかってもらおうとも思わないわ。だけど… あなたのように関係ない人にまで、こんなつらい思いをさせているとは知らなかった。私と彼は…」

 ルチアは低い声で話し続けていた。そこには内側から突き上げるような告白の衝動もなければ、オルガの強要に屈したような苦しそうな様子もなかった。ただ、一言一言、自分の心と記憶に問い合わせ、確認しながら話しているかのような、淡々とした口調だった。そのことはさらにオルガの神経を逆撫でした。

「私たちは… 出会う必要があった。それは確かなの。一目見てお互いにそれがわかった。でも、私はそれを形にしたいなんて思わない。心のつながりが感じられる間は一緒にいればいい。それ以外のつながりが欲しくなったら、終わりにすればいいと思ってる。でも、彼にはそれがわからないのよ」

 長く待っていた「自白」がこんなに自然に、こんなに簡単に落ちてきたことに、オルガは信じられない思いだった。同時に、その内容を理解した途端、苦痛が襲ってきた。それはボディブローが徐々に効いてくるように、彼女の五感を麻痺させた。ルチアの声が遠くに聞こえた。ようやくオルガは超人的な力を振り絞って合いの手を打ったが、それはルチアの最後の言葉を繰り返しただけだった。

「わからない?」
「ええ、彼は女には安定を与えるのが男の責任と思っているから」

 オルガは攻撃の衝動が内側に降りていくのを感じ、本能的に常識の鎧に身を固めた。先ほど、正義と真実の弁論でルチアの美しさから精神を守ったように。この女、まるで「神」が自分にひざまづいているかのように話している。何というナイーヴさ、何という愚かさ!

「はっきり言いなさい。先生はクレールとどうなりたいと言っていたの?」
「知らないわ」
「別れるって?」
「言えないわ」
「言いなさい」
「あの人はどうあっても私と一緒になると言っているわ… でも、私にはそんなこと、本当に必要ないの」

 オルガの中で何かが崩れた。
 これは狂気だ。狂人の見ている夢だ。誰が狂っている?私ではない。なぜならここはフランス。私は栄光のフランス合理主義の末裔として、次の世代に継承すべき業績を上げてきたから。狂っているのはルチアだ。それを分からせなければ。彼女のために。彼女と同じように狂った人たちの国へ帰ってもらうために。
 オルガは狂人を前にした人の顔を作った。虚ろな目を大きく見開き、呆然と口を開け、ゆっくりと頭を振った。まるでカルチエ・ラタンをショートパンツとビーチサンダルで闊歩するアメリカ人グループとすれ違ったかのように。まるで、真夏のマルセイユで分厚いコートに包まれて震えている変人に出会ったかのように。まるで、砲弾があちこちから飛来し、手足をもがれたアラブ人の死体が累々と積み重なるガザ地区で、アメリカ大使館がユダヤ人の慰霊コンサートを行ったとニュースを聞いたかのように。狂人の世界を垣間見て、茫然自失に追い込まれた常識人の絶望を映して。

「ノン…!」

 狂人に現実が見えていないのは、狂人のせいじゃない。可哀想な、可哀想なルチア!空想の世界に閉じこもるに至ったのだから、彼女の人生はさぞかし辛いものだったに違いない!

「あり得ないわ… あんたが先生について考えていることは、一から十まで妄想、しかも価値のない妄想よ。いいこと?クレールは教授にとって理想の女性なの。先生の年代のフランス人男性なら皆そう言うわ。命を賭けても惜しくないって。金髪碧眼、肌が透き通るように白くて、ほっそりと長身で、ワルキューレから抜け出たような美女よ。あんな女性を毎日見ている先生からしたら、あんたはどう映るかしらね…」

https://www.wikidata.org/wiki/Q28801693



      §           §           §

 午後4時15分。
 ル・ドルシェルテルを出たオルガは、目の前のメトロの駅に降りるのをやめて、リヴォリ通りに向かって歩き始めた。まっすぐ下れば左手にBVHと呼ばれている中程度のデパートがある。その南がリヴォリ通り、通り渡ればパリ市庁舎前広場。そこから左に曲がれば、メトロのサン・ポール駅に向かって右と左にマレ地区が広がる。左側(リヴォリに対して北)が概ね20世紀のユダヤ人街、右側(リヴォリに対して南)がルネサンスから17世紀にかけて王族やクルティザンヌの別宅があった界隈。
 オルガの目的は、リヴォリ通り南のルネサンス・マレ地区入り口にあるメレンゲ菓子専門店「オー・メルヴェイユー・ド・フレッド」のブティックだ。他店舗では滅多に手に入らないホールのパブロヴァが売っている。ちなみに「レ・メルヴェイユー」というのは、18世紀末の総裁政府時代のハイファッション・リベラル男女の呼び名「レ・ザンクロワイヤーブル・エ・レ・メルヴェイユーズ(訳せば「アンビリーバブル・ボーイズとファビュラス・ガールズ」くらいか)」から来たもの。この軽く、華やかな菓子は、「古代ギリシャ風ドレス」(レカミエ夫人が着ているネグリジェ用のドレス)や男子用コルセットとともに、一世を風靡したに違いない。

Incroyable et merveilleuse

 オルガは18世紀末、日々あらゆる制度が変わっていた時代のパリに想いを馳せた。どんな映画も再現することのできない活気と希望。政治、軍事、教育、学問、経済、あらゆる既存のシステムが崩れて、毎日のように新たなシステムが考案され、実験に移されていた。なんという輝かしい破壊、なんという豊穣な暴力!あの10年間には4万人がギロチンの露と消え、数世紀に値する社会制度の革命が行われた。今でも7月14日の革命記念日には、あの果てしない暴虐の日々を讃える人々でこの辺りは一杯になる。偉大なるフランス共和国は破壊から生まれた生命なのだ!
 パリ市庁舎が見えてきた。イダルゴ市長はテレビで見るたび胸糞悪いが、少なくともインクルージョン教育システムの擁護者ではある。同性愛者である以外保守的だったドラノエに比べればまだまし。市庁舎に掲げられた三色旗は、オルガの心を熱くした。

 第一共和制はロベスピエール陣営の粛清に行きついたけれど、それもテルミドールのクーデターで終焉した。啓蒙の世紀のフランス民衆は、すでにブルジョワジーの権利を生み出していた。だから、全体主義から全体主義を行ったり来たりするロシアや北朝鮮や中国とは違う。フランスでは、行き過ぎた時には必ず自浄作用が起こる。そして社会という大きな有機体はホメオステイシスを取り戻す。さて、テルミドールの後、それまで海外に逃げていたブルジョワが戻ってきて(ああ、それにしてもコンドルセの命が失われたのはなんという損失!)、リベラルな総裁政府を樹立した。パリは生きやすさの哲学と刹那の快楽に沈潜した。しかしすぐにナポレオンがクーデターを起こした。1799年末のブリュメールから1815年までのナポレオン時代、フランスには見事なブルジョワ社会が生まれた。カトリックと若いし、家庭には徹底した父権主義、ナショナル・バンクによるインフレの掌握。あの時代に設置された男子の兵役は、これまで20年間廃絶されていたけれど、マクロンが復活させた。マクロンの政策で唯一評価できるところだわ。

 オルガは歴史のおさらいをしながら(ついでに歴史哲学の仮説を頭の片隅にノートしながら)、心の落ち着きが戻ってきたことを感じていた。オルガにとって18世紀のマレや19世紀のマレは、歴史書でまるで見てきたように知っている場所だったが、オルガがあまり関心を持ったことのない20世紀にもさまざまに変化があったに違いない。現在、マスコミ関係者やデザイナー、テレビタレント的インテリが住んでいる。しかし、オルガが若い頃はむしろ貧しい界隈だった。歴史建造物と言えば聞こえはいいけれど、古い、湿気で半分朽ちたような中世の馬小屋みたいな建物が立ち並んでいて、1920年代から40年代にはロシアのポグロム、東欧とドイツの粛清から逃げてきたユダヤ人移民がほとんどただの賃料で住みついた。オルガの父にとって、マレは「感染症の巣窟」で、だから愛娘にも足を踏み入れてはならないと言い聞かせていた。マレがファッショナブルな界隈になったのは1980年代のこと、続いて、レインボーフラッグと日中から手を繋いで歩いている男性カップルが見られるヨーロッパ屈指の「多様性」の街になった。

ここから先は

1,842字 / 5画像

¥ 100

この記事が参加している募集

#この街がすき

43,261件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?