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なにが人の為になるのか?

コロナ禍を機に、それまでの9年ちょっとのあいだ生業としていたマッサージのセラピストをやめて、現在は Uber Eats の配達をしながらなんとか暮らしています。コロナで騒がれはじめた頃は世界中が混乱していて、日本では当初、ライブハウスやスポーツジムがなぜか特別に危険視されていましたね。あの病気の実相がなんだったのかはともかくとして、危険視するならまずは満員電車だろうとわたしは不思議に思っていたものです。

濃厚接触という言葉がテレビで聞かれるようになったとたん、もろに濃厚接触となるマッサージ店も一気に閑散としてしまいました。実はわたしは当時、そのような状況になるより前に原因不明の発熱が続いていて、仕事を休んでいました。病院にかかっても不明熱という謎な診断名をもらうこの謎の発熱はそれまでにも何度か経験していたのですが、このときはけっきょく半年弱(2020年2月~6月)ほど寝こみました。

休んでいるあいだに、先に書いたようにお店も暇になっているという話を同僚からも聞き及んでいたのですが、そこでこれはもう潮時だなと判断して、お店のオーナーに辞意をつたえ、それから体調の回復をみながら Uber Eats の仕事の準備にとりかかり、いまに至ります。ウーバーを選んだのは、誰でも登録すれば仕事ができること、いつ働いていつ休むかは自分で自由に決められること、そして自転車に乗ることはすでに趣味になっていたくらい好きでもあり得意でもあったからです。

マッサージの仕事をはじめたのは、一つにはそれまでの人生をふり返り、自分には会社勤めのようなことは無理なんだなと理解したからでしたが、それでマッサージを選んだのは、いままでやってきた仕事とは違う、もっと分かりやすく、もっと直接的に人の役に立てる仕事がしたいと思ったからです。

そう考えられたのは、たまたま自分が好きで若い頃からずっとマッサージ屋に通い詰めていたからでした。ものすごく上手な人から金を返せと言いたくなるようなレベルの人まで、さまざまなセラピストから施術を受けてきたので、どういう施術がよいかを体で知っていたし、また、根拠はありませんが自分にはできるという自信もなぜかありました。

ところでこの若い時期にはマッサージ屋と並行して、いわゆるヒーリングサロンやヒーリングルームといわれる場所にもよく通っていました。この頃のことについて書いたBLOGの記事がこちらですが、そこにも書いているとおり、当時の東京で結構な数のヒーラーを訪ねましたが、一人の例外をのぞいて、他の人のヒーリング施術は、正直にいってなんの効果もありませんでした。たった一人の例外はインド人のナレンドラでしたが、彼に受けたのは霊視リーディングとヒーリングです。霊視についてはリンク先の記事にあるように、わたしにとっては予言といってもよい内容でした。ヒーリングについては、その場で効果を実感できたわけではありません。ただ、これから書いていく話を読んでいただくと分かりますが、もしかしたらこのときのヒーリングも、非常に効果があったのかもしれないと思っています。いずれにしても、ナレンドラに会って以降、自称ヒーラーのもとには一度も行っていません。

話を戻しますが、そんなこんなで当時のわたしには、インチキまがいのヒーリングなどよりも、上手なセラピストにやってもらうマッサージの方がよっぽどヒーリング効果があるという認識がはっきりとあったのですが、それもあって腕のいいマッサージセラピストになるということは本当の意味でヒーラーになるということだと考え、その世界に飛びこみました。

それから実際にセラピストになって経験を積んでいくのですが、この時代にホーキンズ博士の「パワーか、フォースか」「 I <わたし> 真実と主観性」を熟読して、意識レベルという概念を学びながら、自分自身の意識に起こっている変容あるいは変化について詳しく知ろうとしていました。

その過程で理解したこと。それは「癒やしの本質は意識が癒やされることである」というものです。あらゆる心身の苦しみは意識レベルに反映されます。苦しみが癒やされると意識レベルは上昇(回復)します。つまり、癒やしとは意識レベルが上昇すること、あるいは回復することなのです。

ホーキンズ博士の意識のスケールにおいて、「真のヒーラー」は540のレベルであるとされています。この意識レベル540という数値は重要なポイントで、このレベルでは「無条件の愛」が表現されます。また意識レベル539以下の人までは、さまざまな要因によって低いレベルへと後戻りする可能性が常にありますが、540を超えると意識レベルが下がることはないそうです。それゆえ、深刻な依存症を脱するためには本人が540以上の意識レベルに跳躍するか、540以上の意識レベルの人物のそばに居続けるしかないと博士は言っています。

真のヒーラーが540以上というのは、無条件の愛から転落することのない意識レベルの持ち主であるということで、この領域に到達してはじめてヒーラーを名乗ってもよいということになります。考えてみれば分かることですが、意識レベル125の欲望のレベルの人や、175のプライドのレベルの人が外見を取り繕っていかにもヒーラー然としたところで、仕事でまずます成功しながらも競争の激しい世界で苦労している350の受容のレベルにいるビジネスマンを癒せるわけがありませんね。また、540以上の人たちにも心身の問題は皆無ではありませんが、彼らはすでに苦しみとは一体化していませんから、他のヒーラーに癒やしてもらう必要がありません。ですから、ヒーリングというものは意識レベル540以上の人物が539以下の人に対して行うものであるといえます。

また、このことから、実際になにか施術を行うことがヒーリングにおいて不可欠ではないことも理解されるかと思います。高い意識レベルのフィールドに触れること、曝露されることがヒーリングの本質ですから、真のヒーラーがもしいれば、その人に会って縁を持つだけで癒やしは起こるわけです。ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシといった有名な覚者のところに世界中から大勢の人が会いに行きましたが、そこで起きていたことの本質はヒーリングです。もちろん、彼らから教えをもらうことで理解が促されることでも意識レベルは高まったでしょうが、それは見かけの現象であって、ただその場にいただけでも同様のことは起きていたはずです。

このようなことをマッサージセラピストとして働きながら理解していったのですが、ちょうどその時期に、わたし自身が深刻だった薬物への依存から完全に脱することができたのです。ギャンブルの方は父が死んだ時点でやめることができたのですが、そのとき薬物は違法なものから手を引いただけで、この時点まではまだ合法で入手できるような代物を使っていました。しかし、それもこのときにキッパリとやめることができました。このとき、というのは抱えていた借金を完済できたタイミングです。おそらく、そのことによって意識レベルがさらに浮揚したのだと、いまでは思っています。

そのようにして、ちょうどそのとき自分が理解したことが、自分自身の身に起きたのでした。すなわち、真のヒーラーである意識レベル540を通過したのがそのときのことでした。

それでなにが変わったかというと、とくになにも変わりはしません。当時すでにわたしはそのお店では指名獲得数ナンバーワンになっていましたが、お客さんの反応がそれまでよりも目に見えてよくなったということはありませんでしたし、突然オーラやチャクラが見えるようになって体の悪いところが分かるようになった、などということもありません。ただ、自分の中で、施術のテクニックといった表面的なことよりも、そのお客さんがどういう意識レベルの人で、どういうことで苦しんだり疲れたりしているのだろうか? ということに気を向けるようになりました。

先に書いたとおり、意識レベル540の人はふれあうだけで人を癒やすパワーを持っています。ですから、なにをしてあげるとかではなく、ただその人の心身に寄り添ってあげることこそが大切であるといえます。それから仕事をやめるまで、延べ数千人の人に施術をしましたが、わたしに関わった人がどれだけ癒やされたかは分かりません。ただ、最初に書いたような転機に際して、マッサージセラピストとしての役割はもう十分に果たしたと思えたので、この仕事にはピリオドを打ちました。

人の役に立ちたいと思ってセラピストになって、実際にたくさんの人の役に立てたという思いは嘘偽りなくあります。しかし一方で、「とは言ったものの、はたして本当の意味で人の役に立つとはどういうことなのだろう?」という根本的な問いが、この仕事の終盤のころ、わたしの頭にはありました。

人の役に立つという言葉に似たものとして、人を助けるという言葉がありますね。わたしの中ではこれらはどちらもほとんど同じなのですが、助けるというとなにか偉そうな感じがするので、役に立つという言葉をわたしは好んで使っているだけです。いずれにしても、その人の為になることをする、という意味だとしておきましょう。

ここでは分かりやすいので、人を助けるということをみていきます。たとえば、何日も食べていないホームレスの人がいるとします。あなたがこの人にパンをあげるという行為は、その人を助けることと言えるでしょうか? もちろんパンをもらった人は「助かった」と言うでしょうから、あなたは助けたといってよいでしょう。

しかし、お腹いっぱいになって顔色もよくなったその人をみて、あなたはどうしますか? きっと、「よかったよかった、じゃあ元気でね!」といって去っていくのではないでしょうか? わたしはそれでよいと思いますが、しかし、あなたが去ったあとしばらくもすれば、この人はまたお腹を空かすはずです。つまり、あなたの助けは一時しのぎにしかならなかったということですね。

では、どうすればこの人を助けることができるでしょうか? パンの作り方を教えることでしょうか? それとも、パンを買うお金を稼ぐために仕事を紹介することでしょうか? あるいは自治体の支援機関のようなところに彼を連れて行ってあげることでしょうか?

こうして考えると、なにがその人の為になるか? どうすれば助けたことになるか? ということは、非常に難しい問題であることが分かってきます。なぜその人がホームレスになっていたのかということまで考えたとき、もしその責任が社会にあるのなら、社会を変えなければいけないという話にまでなってしまいます。

そしてさらに、スピリチュアルな視点でこのホームレスの人をみるなら、彼がそのような境遇にあることは彼自身のカルマによるということができます。つまり彼の魂が、そのような経験をこの人生においてすることを決めて転生してきている、という考え方です。こう考えるなら、さきほど挙げた行為はどれもこれも、本当の意味で彼の助けにはなっていない可能性がでてきます。

しかし同時に、このホームレスの人の魂が選んできたシナリオは「ホームレスという苦境のなかでパンを施してもらうという経験によって人の善意や利他心を学ぶ」というものだったり、それどころかさらに「ホームレスだった自分がある出会いをきっかけにパン職人になって成功する」まで描いているかもしれません。

こういうことを考えると、なにが人の為になるかなんて、考えても意味がないなと思えてきますね。実際、その通りです。

であるなら、具体的にどうするのが正解でしょうか?

ぶっちゃけると、正解はわたしにも分かりません。というより、こうすればよいという正解なんてものはないと思います。ただ、助けられる側の人にもカルマのシナリオがあるのなら、助ける側の人にもカルマのシナリオはあります。ですから、あなたの人生のある局面において、誰かを助けるべきかどうかという判断があるなら、そのときはよくよく考えるべきでしょう。助けるとして、どのように助けるべきか? あるいは、そもそも助けるべきではないという判断もあるでしょう。 

利他心という言葉をさきほど使いました。たしかに利他心は美徳であり、尊いものです。しかし、利他心というとき、そこには自他の分離があることも事実です。真理の観点では分離はありません。自分も他者もおなじ一つですから、自分に施すことは他者に施すことであり、他者に施すことは自分に施すことです。

なにが言えるかというと、人の役に立つ、助ける、あるいは為になるということも、癒やしとおなじであるということです。すなわち、もしも人を助けるうえで正解があるとするなら、それはよりよい自分がその人の前に立つ、ということです。よりよい自分とは、より高い意識レベルの自分ということです。より癒やされた自分です。

どんな人が相手であれ、どのようなシチュエーションであれ、人と人が関わるとき、そこで起きているのは意識のバイブレーションによる交流です。

ですから、あなたがその人に対してなにをしてあげようと思うか、実際になにをしてあげるか、あるいはなにもしないでおくか、といったことは見かけの現象に過ぎません。そして、どんなことが現象として起きるかは、あなたの意識レベルによって決まります。

あなたが自分の意識レベルを高めるために行ったすべての努力は、そのまま世界を助けるための努力です。そして、あなたが世界を助けるために行うすべては、あなた自身を癒やすでしょう。つまるところ、自分を癒すことが世界を癒すことです。

ちなみに、わたしにはわたしなりのルールがあります。それは「自分から手を差し伸べることはしない」ということです。言い替えるなら「助けを求められない限り助けない」です。そして、助けを求められたとしても「気が向かない限りは」助けないことにしています。

気が向く、ということはおそらく魂のサインだと考えているのですが、そういう場合はわたしにとっても、助けられる人にとっても、カルマのシナリオに沿っているのではないでしょうか。

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