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林の中を歩くこと(大泉緑地へ行ってきました)

堺市新金岡の大泉緑地へ行ってきました。

今月、マッサージの職場時代の同僚の子たちと兵庫県の金鳥山(カタカムナで有名な場所です)に登りにいく予定なんですが、このあいだワークマンで買ったトレッキングシューズをそのときに履いていくつもりなので、今回はそのための試し履きと足慣らしでやってきました。

大泉緑地は6,7年前には毎月のように訪れていたお気に入りの場所です。ここは緑地というだけあって公園全体が木々の生い茂った林になっていて、その中にはアスファルトで舗装された道もあるのですが、それとは別に「樹の道」という林の中を歩いていける遊歩道が設けられています。この樹の道は足元にウッドチップが敷き詰められていてフカフカで、とても気持ちよく歩けるようになっています。

樹の道

こんな感じで、場所によっては公園の中とは思えないほど普通に林です。自宅から地下鉄一本で30分も掛からないこともあって、それ以降も年に一度か二度は林歩きをするために訪れています。わたしは山を登る(低山専門ですが)のも好きなのですが、登ることにとくにこだわりはなく、ただただ自然の中を歩くことが大好きです。

山の中や林の中をひたすら黙々と歩いていると、いつの間にか自我が完全に消え去っていて、まわりの自然と自分の境界がなくなってただその場その瞬間に溶けこんでいるような感覚になれます。そのとき、環境音や自分の足音はちゃんと聞こえているのに、とてつもない静寂が訪れます。静かなだけでなく、時間の進み方もゆっくりと感じられ、ときには時間が止まったように思えることもあります。この静寂は、マジックマッシュルームやDMTを摂取したときにも経験したことがあって、そのときに考察しましたが、静かになっているのは環境のほうではなく自分自身だったのですね。

自分の頭の中の思考というのはいわば一種の雑音なのですが、普通に暮らしている人はそれが当たり前なのでノイズだとは思いません。しかし、なにかのきっかけで思考が弱まって(思考が完全にゼロになることは通常の肉体の状態ではありません。ここでは雑念が消えることをイメージしてください)、感覚が非常に研ぎ澄まされた状態になったという経験をしたことはあるでしょう。アスリートの世界でいうフロー状態やゾーンといったものもこの状態です。

意識レベルが高まっていくと、雑念としての思考だけではなく、そういう思考が形をなすその手前の思念までもが減少していきます。結果、意識の水面に立つ波風が完全に消え去って、先に書いた静寂がやってきます。いまのわたしは普段からこの静寂、つまりゾーンのなかにいますが、それでも自然の中を歩くとその感覚がいっそう強まるということは、まだまだ雑念が完全にはなくなっていないということを示しているのでしょう。

この広場の雰囲気が好きなのですが、今朝は芝生に霜が降りていて幻想的な景観になっていました。

その景観に見とれているフリをしてその実なにも考えていない(ゾーンに入っているわけでもない)おじさんがわたしです。

わたしはこの note でもBLOGでも、あまり瞑想を推していません。でも、それはべつに瞑想を嫌いなわけでも否定しているわけでもなく、わたしの書く記事を読んでくださる方の多くは探求者であって、瞑想などは言われなくてもやっているだろうと思っていることがまずあります。

もうひとつには、他のどこかでも書いたかもしれませんが、瞑想というのは「これから瞑想をする」と決めて、人によっては場所や座り方(わたしは瞑想をするときは寝そべってやりますが)も決めて、それからやるものだからです。はじめのうちは、それでよいでしょう。でも、いわゆる瞑想状態というべき意識のあり方(思考や感覚に気づいている状態)を経験できたならば、以降は瞑想という形をとらなくても常にその意識状態でいられるようになる努力をするべきです。

そのための方法論として、 IF (直感的フィールド)というワークを提案してもいますが、他にはこうして、ときどき近くの山や森林公園的な場所を訪れてゆっくりと歩くこともおすすめです。どちらかというと、多少なりとも登りのあるコースの方がしんどいので雑念が消えやすくゾーンに入りやすいような気もしますが、そこは個人差もあるかもしれません。

下生えの植物も霜で白くなっていました

単なる気晴らし、という言葉がありますが、単なる気晴らしって実はけっこう大事だとわたしは思います。個人的な経験からいって、単なる気晴らしをしているときにこそ、いいアイディアがおりてきたり、なにか気づきがあったり、ただただリラックスできたり、そして気がつくとゾーンに入っていたりと、いいことずくめです。

むしろ、これほど素晴らしい気晴らしのことを「単なる気晴らしにすぎない」などとまるでつまらないものであるかのようにみなしてしまうことがわりと普通の感覚であるところが、現代の人々がいかに左脳的な思考中毒(中毒なのでよいことは一つもありません)に陥っているかを示しているように、わたしには思えます。

気晴らしといえば、わたしにとって二大気晴らしの一つがこの自然の中を歩くことであり、もう一つはスーパー銭湯に行くことです(これから行ってきます)😌

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