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質問箱への回答㉒『霊的探求ってなんなのさ?』

今回はスナフキンさんからのご質問です。質問の内容はこちらです。

そもそも霊的探求ってなんやねん?🤔 なんでワイはこんなことやっとんねん。ずっと探求を続けてきながら、ふと原点に帰ってこのような疑問が頭に浮かぶこともあるかもしれません。実をいうと、この質問はとても大事なものなんですよ。それではさっそく回答していきましょう。今回も回答は note のほうのみで行い、質問箱にはこの記事へのリンクを書いて送信させてもらいますね。


霊的探求の道とは一体何でしょうか?

読点を「?」に変えさせてもらっています

ご質問ありがとうございます🙂

霊的探求の前にまず、霊的という言葉がなにを意味しているかをご説明しましょう。霊とはわたしたちの存在の本質を指す言葉です。存在するすべてのものの本質は意識であり、この意識は分割できない一つのものです。すなわち存在するものはなんであれ一なる意識の部分としての顕れです。この一なる意識の部分としての顕れであるわたしたち人間の本質(つまり、一なる意識のうちの個別の人間としての部分)のことを霊と呼びます

霊とは真我のことであり、魂のことでもあります。霊や真我や魂、そしてハイヤーセルフといった言葉はすべて、一なる意識の個別的な顕れである人間存在の本質について異なる観点から説明しているだけで、どれもおなじものを指しているのです。大切なことは、霊にしても真我にしてもハイヤーセルフにしても、すべてである一つの意識につながっているということです。別の言い方をすると、霊や真我や魂は神と分離していないということです。個別的に見えるのはあくまで見かけであって、本質的にはわたしの霊もあなたの霊もおなじものです。

霊的探求とは、ですからいま述べたことを知るための探求です。もっとも、ただ知るだけではなく、いま述べた通りに世界を知覚できるようになることが最終的なゴールといってもよいでしょう。言ってみると探求とはこれだけですので、いまわたしが述べたことをすでに理解していて、わたしが述べたように話したり書いたりできる人がもしいたなら、その人はすでに霊的探求の道をほとんど歩ききっていると言えます。

つまり、スナフキンさんをからかうわけではありませんが、ほとんどの探求者は自分がなにを探求しているのかよく分かってはいないのです。それもそのはずで、分からないからこそ探しているのですから。だから、自分がなにを探しているのかをまず知ることが探求者の最初の目標です。

ここでちょっと違う角度から観てみましょう。

霊的探求とは、要するに悟りを求める道です。悟りまでいかなくて覚醒を目指すでももちろん構いません。悟りとは、先ほど述べた理解と知覚の変容がその人の肉体精神機構に起こることです。覚醒はおなじことが起こるのですが、すこし不完全だということです。

いずれにしても、探求者に「あなたにとって悟り(覚醒)とはなんですか?」と聞いたとしましょう。探求者は言うでしょう。

「それが分からないから探求しているのですよ!」と。

探求の終わりは質問の終わりというのですが、探求者の質問とはつまるところすべてが「わたしは一体なにを探しているのでしょうか?」というものなのです。ですから、探し物が見つかったとき、つまり悟り(覚醒)がなんなのか分かったときにはもう質問はありません。知的な理解において悟りがなんであるかを理解しているつもりの探求者は非常にたくさんいますが、その一方でそういった方はなおも探求者であり続けます。探求者=質問のある人です。それが意味しているのは、その人たちはまだ悟っていない(※)ということです。

※悟る、悟らないという表現は本当は正しくありません。なぜなら悟りはエゴが成し遂げるなにかでも、到達するなにかでもないからです。ですから言おうとするならその人(の肉体精神機構)に悟りが起こったというべきなのですが、話を分かりやすくするために悟る、悟っていないという言い方をしています。

注釈です

ここまでの説明はただしく霊的探求とはなにかについて述べたものですが、スナフキンさんが聞きたかったのはおそらくこういうことではないと思います。よってここからが本題になりますが、しかしこの回答を読まれる他の方に向けては本題の前にまずこうした説明が必要だと思いました。

さて、霊的探求ですが、これがなんなのかを分かりやすくするためにマズローの欲求5段階説を引き合いに出してみましょう。

マズローの欲求5段階説において人間の欲求には

自己実現欲求
承認欲求
社会的欲求
安全の欲求
生理的欲求

の5段階があるとされています。生理的欲求が一番下の段階で、下の欲求が満たされると人は次に一段上の欲求を満たそうとするというものです。これは妥当だと思います。そして、一番上にある自己実現欲求とはすでに安定した職業や一定の評価も手に入れた人が最後に取り組むというもので、簡単にいえば「理想の自分になりたい」というものです。

この理想の自分というのはその人それぞれで、徳のある立派な人物になりたいという人もいれば成功者として有名になりたいとか、芸術家として認められたいとかいったものもあるでしょう。

いずれにしてもマズローのいう自己実現とはその人のエゴの立ち位置でしかないことがお分かりになるかと思います。まあそもそもですが、欲求するのはエゴですから、どんな欲求であってもそれはエゴのレベルです。

ここで振り返って霊的探求を見てみると、霊的な探求といっても探求しているのはその人のエゴです。つまり、霊的探求はマズローの説によれば自己実現欲求からはじまると言ってよいでしょう。

探求者といっても様々で、本人は霊的探求をしているつもりでも、実際にはふわっとした疑似スピリチュアリズムに惹かれているだけの人というのは数でいえばむしろ多数派かもしれません。そうした人は予知能力や霊視能力のある自称スピリチュアルカウンセラーなる怪しげな人物に憧れていて、自分も努力すればこうした人物のように「成れる」と考えているかもしれません。

こういう人たちはまさに自己実現欲求の段階にあるわけですが、このようにして見れば自己実現欲求といってもそんなに高尚なものではないことが分かりますね。

いっぽう、探求者の一部には「本当の霊的ななにか」を求めている(つまり悟りを求めている)人たちが存在します。この人たちも悟りがなんであるかを知らないがゆえ、「悟った人」になりたいと考えているという意味では自己実現欲求の段階にはあります。

この人はやがて「この道は自分が思っていたものとはどうやら違うようだ」ということに気づくかもしれません。具体的には、この「自分」とやらは幻想であるらしいということを読んだり聞いたりして知るというわけなのですが、それを知ってもなおその人が探求をやめなかったとすると、それはなにを意味しているでしょうか? すなわち、自己実現欲求と手を切るということです。

言ってみればここで探求者は自己実現ではなく自己超越を願うことになるわけです。ただ、とはいっても自己(=エゴ)を超越したいと願っているのはまさにそのエゴなわけですから、事はなかなかに難しいわけですね。とはいえ、これで霊的探求と霊的探究者とはなにかをある程度客観的に位置づけできたのではないかと思います。

霊的探求の道を進んでしまう人とそうでない人の違いは、カルマでしょうか? それとも肉体精神機構を持って存在するならば、程度の差はあれ、皆それぞれ探求しているのでしょうか?

人間に限らずこの宇宙の万物は進化を目指しています。進化とはより統合的な存在へと変化していくということを意味します。グルジエフはこの宇宙の根本的な法則として「進展的退化」「回帰的進化」ということを言っていますが、これは宇宙は分離の極みといえる素粒子が生み出される(退化)ことによって拡大(進展)し、拡がった宇宙の隅々でこの素粒子がやがて原子や分子となり、それが結合して有機物となり、さらに生命が登場し、より統合性の高い生命体へと進化し、最後にはすべての源泉であるところの神へと帰る(回帰)というものです。

人間という存在もこの回帰的進化の一つの段階であり、すべての人間が望む望まざるに関わらず、このプロセスのなかで進化へと向かっています。たった一つの人生ではほとんどなにも進化していないように見える人でも、無数に繰り返す転生のなかでは確実に進化するしかないのです。

ですから、すべての人がいずれは霊的な知覚を得る(つまり悟りを得る)ところまで進化することになっています。それが人類全体としてのカルマですが、たまたまこの現代の日本に転生している一人ひとりの人間存在がこの人生で霊的な探求の道を選ぶかどうかは確かに個人のカルマによって決まっていると言えるでしょう。

しかし、例外なく誰もが進化の道にあり、その道はいずれ霊的探求の段階へと進むことも決まっていますから、その意味でいえば誰もが探求していると言ってもよいかもしれませんね。

時間という幻想のなかでは、ある人は霊的探求をし、ある人はそれをしないという違いがあるように見えますが、それには進化の段階が人それぞれだということ以上のどんな意味もありません。進化のスピードが早ければ偉いわけでもないですし、遅いから劣るわけでも決してありません。たまたまこの人生で霊的探求の道を歩む人と、この人生ではそんな面倒くさいことはしたくない、ワイはもっと遊ぶんやで!という人がいるというだけのことです。

それに、霊的探求をしていても、それがこの人生で実を結ぶ人はご覧の通りそんなにはいません。多くの人は次回の人生に持ち越すかもしれません。ただ、いまという時代は過去に比べて悟りや覚醒が起きる可能性は段違いに高まっているとは思いますけどね。

最後に霊的探求について、もうすこし補足しておきます。それは悟りや覚醒だけが霊的探求のゴールではないということです。はじめの方での説明ではそれらしかゴールがないかのように書きましたが、それはそれで間違ってもいません。ただ、それだとあまりに希望がないというか、悟りや覚醒が起こるかどうかは結局のところ全体性の中でそれが起こることが決まっているかどうか次第なので、分かってくればくるほど希望を持つこと自体が難しく感じるようになると思います。

問題は、人間には悟っている人(覚醒している人)か悟っていない人の二種類しかいないかのようなイメージが霊的探求の世界にはあることです。わたしのこれまでの説明も、このようなイメージに基づいて書いていますが、先ほども言ったように、これはこれで間違ってはいないのです。というのも、悟りの前段階といえる覚醒(意識レベル600~)はそれ以下のレベルとは大きく違っています。具体的には600では二元性が超越されます。これが意味しているのは、600以上の人物は真実と虚偽を完全に見極められるということです。覚醒という言葉にはそれだけの意味があるということですね。

しかしながら、では599の人は真実を見極められないのかというとそうでもありません。間違うことはもちろんありますが、それでも599は600と1ポイントしか違いませんから、その人の識別力は並大抵のものではありません。では550だとどうかといえば、550の人も十分な識別力を備えています。

また、霊や霊的なという言葉の意味は最初にお伝えしましたが、意識レベル500を超えるとその人には霊的な知覚が芽生えはじめます。ざっくりいえば500台の人は霊的なことを知覚できる存在であり、600の人になると、その人の存在そのものが霊的であると言ってもよいかもしれません。

いずれにしても、一つの考え方としては「霊的探求とは意識レベル600を目指すものである」と言えるでしょう。この場合、霊的な探求者とは意識レベル500台の人のことを指すと考えるべきかもしれません。霊的な知覚を育みつつ、いずれは自らが霊的な存在となることを目指す道、これが一つ目の霊的探求です。

もう一つは、霊的な知覚を獲得することを目標とするのが霊的探求であるとする考え方です。この場合は意識レベル500を目指すことになりますね。この場合はそれ以下のすべてのレベルの人が探求者たり得るでしょう。

一般的な霊的探求というとおそらく前者のことを言っていると思いますが、後者もまた間違いなく霊的な探求であると言えます。どちらが正しいというのではなく、このように二通りに考えるべきものであると理解しておくのがよいと思います。

そして、最後になりますが、このように柔軟に考え、なおかつどのレベルの探求者であっても自分の現在地を知り、そこからどのように進んでいくべきかを誰でも知ることができるようになったのはホーキンズ博士の最大の功績であるとわたしは思います。博士の教えの観点でいうなら、霊的探求とは意識レベルを向上させるための意欲的な取り組みであると言えるでしょう。わたしはこの定義が一番好きです。

回答はこれで以上になります。お読み下さってありがとうございました。お役に立ちましたら幸いに思います。


おまけ。最近一番観てる(聴いている)のがこれです😆

この曲のサブベース(重低音)が癖になっています。イヤホンも色々あって低音が強いものや高音がきらびやかなものとそれぞれ特徴があるのですが、一昔前は一般的には低音が強ければ高音は控えめ、その逆もしかりというのが常識だったんですが、最近のイヤホンはマルチドライバーのハイブリッドタイプが主流になっていて、その常識はもはや過去のものになっています。

ドライバーというのはイヤホンの音を出す部分のことですが、いわゆるスピーカーってどれも大きな丸い部分があってそこから音が出ますよね。あの丸いやつがドライバーなんですが、スピーカーでも高級な機種だと大きな丸いの以外に小さいものがいくつかついていて、大きい方は低音担当、小さい方は高音担当、さらには別置きで重低音担当のウーハーを用意したりもしますね。こういうドライバーを複数個、複数種類搭載しているのがマルチドライバー、ハイブリッドシステムです。

ドライバーが多いほど、それぞれのドライバーが担当する音域が狭くなるため重低音域から高音域まで無理なく再生できるうえ、それぞれの音の解像感も向上します。もちろん、ただ多ければいいというものでもないんですが、基本的にはドライバーが多いは正義です。

いまはイヤホンの世界でもこのマルチドライバー・ハイブリッド化が普通になってきているんですが、こういうタイプのイヤホンでないと最近の音数の多い楽曲は十分に聴きこなせないんですよね。例えば有名どころだとYOASOBI の曲をマルチドライバーのイヤホンで聴くと「えっ、こんな音鳴っていたんだ!」と驚くこと間違いないです。ただ音の数が多いだけでなく、重低音から高音までふんだんに使われていますから、その点でもマルチドライバーの恩恵はすごいです。

ちなみに、この手のイヤホンは中国のメーカーが世界をリードしています。安くて高性能、高音質なイヤホンをお求めでしたら、「KZ」というメーカーがいいです。Amazonで買えます。7000円ちょっとしますが ZAX という機種がおすすめです。わたしも持っていますが、別で持っている2万円ちょっとするイヤホン(これも中華メーカーですが)と遜色ないです。重低音だけでいえば ZAX のほうが上ですね。また、ドライバー数は減りますが5000円以下でもKZのイヤホンはいい音しますよ。

ただし、この手のイヤホンの性能を十分に引き出すには DAC というものを使うべきです。また、DAC を使えばイヤホンジャックのないスマホでも聴けますよ。これも1万円を切るくらいから色々とありますが、使ってみたらその音質にびっくりされるでしょう。わたしは水月雨(moondrop)の moonriver2 ti というDAC を使っています。

DAC とイヤホンで1万5千円から2万円の出費にはなりますが、これまでとは違う音楽体験ができること請け合いです。興味のある方はぜひ試しちゃってください。

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