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明け渡し(バクティ)とはなにか?

真の謙虚さは、自分はあらゆる行為の作者ではないという確信です。謙虚に自分の欠点を取り除くように神に乞うのは、根本的に無力を認めることです。
明け渡しについて憶測する場合、自分よりも偉大な力へ明け渡せば何もしなくて良いのだと想像しがちです。神が為すのを一日中ただ座って待っているという具合です。それは私の経験とは違いますし、憶測を超えて実際に明け渡しと探求の道に踏み込んだ他の多くの人の経験とも違います。ほとんどの人にとって実際、明け渡しによって生じる束縛からの解放は、活力を与え、想像もしなかった方法で力づけてくれるものとなります。

『無力の道: アドヴァイタと12ステップから見た真実』ウェイン・リカーマン

うちの家から歩いて5分のところにダパイダンという屋台風の台湾料理のお店があるのですが、麺類かご飯もの(魯肉飯とか海南鶏飯とか)から一種類を選んでそれに焼き小龍包がついて税込みで1000円ちょっとと、めちゃくちゃお得でしかも美味しいので母とよく食べに行っています。

それで今日も行ってきたんですけど、いままで無料で食べ放題だったザーサイが無くなってしまっていました。お店の人に尋ねたら昨今の物価上昇のあれでごにょごにょ……って感じでした。まあそうでしょうね。でもあのザーサイもめっちゃ美味しかったのでちょっと残念でした。

ちなみにダパイダンと並んでわたしのお気に入りの店はスパイスキングダムです。こちらも平日のランチがカレー3種にナンとライスとパパド、それからサラダとドリンクがついて1000円でお釣りが来るのでインド人どんなマジックを使っているのだろうといつも思いながらご馳走になっています。うちはなんばCITYから歩いて5分のところにあるのですが、美味しい誘惑が多い危険な土地なので困ってます😋

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今回はウェイン・リカーマンの『無力の道: アドヴァイタと12ステップから見た真実』から引用しました。ウェインはラメッシ・バルセカールから学んでいた人で、それ以前にはアルコールと薬物の深刻な依存症で苦しんでいたのですが、あるときに恩寵によって意識の目覚めを経験し、その目覚めの真っ只中でAA(アルコール・アノニマス)のミーティングに参加してみようという気になったことによって依存症を克服し、その後はスピリチュアルな世界で活躍するようになっていったそうです。

わたしはアルコールはもともと体質的に受けつけませんでしたが、その点を除けばウェインとわたしは非常によく似た経緯をたどっていると言えるでしょう。わたしはラメッシに直接会ったことはもちろんありませんが、霊的なことについて誰に教わったのかと聞かれればラメッシとホーキンズ博士の二人からであると即座に答えるものです。

ちなみにホーキンズ博士によれば、深刻な依存症から脱した人は意識レベル540以上に飛躍する(というより、540以上に飛躍しなければ依存症は克服できない)そうです。540は無条件の愛のレベルであり、真のヒーラーのレベルとされています。このレベルの人はもう意識レベルが転落することがなくなるのですが、これはグルジエフのいうところの人間第五番に相当するものになります。

わたしは西洋人が書いた非二元の本は基本的におすすめしないのですが、このようにウェイン・リカーマンはその経歴が本当であるなら(嘘をつく理由はないでしょうし)、すくなくとも意識レベル540は超えていると判断できるため、こうして紹介してもよいかなと思いました。また、今回の引用文は明け渡しについて彼が言及している箇所であり、この記事ではその内容について触れていくのですが、本書そのものはAAとアドヴァイタ・ヴェーダーンタの思想の共通性を確認しながらAAの12ステップについて彼なりの解説をしている本です。

AAについてここでは詳しく触れませんが、匿名のボランティアが運営する禁酒サークルで、長い歴史と伝統をもつものです。AAには12のステップというものが定められているのですが、このステップに謙虚に従うことでアルコール依存症から脱することが出来た人は数多く存在します。さきほど述べたように、深刻な依存症から脱するには意識レベル540を超える必要があるわけですから、AAの12ステップの理念には意識をそのレベルへと飛躍させるパワーがあるということが言えるわけです。

ですから、アルコール依存症に限らず、たとえば現在、薬物依存症、ギャンブル依存症などの深刻な依存症に苦しんでおられる方は、この本を通してAAを知るのはよいことだと思います。また、わたしの見るところでは、仕事中毒や人間関係に中毒している人、SNSを見るのをやめられない人なども依存症といってよいです。深刻かどうかは、それによって人生がどれだけ壊されているかで決まります。SNSへの依存は一見するとそこまで問題ではなさそうにみえますが、ほとんど価値がないといってよい他人の言動を知ることに自由になる時間のほとんどすべてを費やしていると考えると、それがどれだけ深刻であるかが分かると思います。その時間を家族や友人と過ごすために使ったり、自分が本当に心から楽しめる趣味に使ったり、あるいはそうでなくてその時間を単にもっとしっかり働くことに使えばと考えると、たかがSNSに人生をどれだけ狂わされているかに気づかされるでしょう。

というわけで、この本は色々な方におすすめできます。そんなに長くないですし、いま現在はKindle Unlimited で無料で読めますので、ぜひ手にとってみてください。

さて、ここ最近バクティ(明け渡し)について言及することが何度かあったのですが、そういえばそもそも明け渡しとはなんぞや? ということについて話をしていなかったなあと思っていました。そもそもわたしは明け渡しを学び、明け渡しを実践していくことで目覚めたわけではなく、人生が詰みすぎててワロタとなったときにエゴが屈服してしまい、図らずも明け渡すことになったものなので、明け渡しとはなんのことであり、明け渡すとどうなるのかについては語れても、どうすれば明け渡せるのかという、つまりバクティ・ヨーガ(明け渡しの道)については教えられません。

それはともかくとして、話を進めましょう。まず先に言っておきますが、明け渡しとは「行為の主体を神に返す」ことを意味しています。ほとんどの人は自分(自分の自我)が行為の主体であると考えていますね。まあ普通はそう思うでしょう。わたしも昔はそう思っていました。自分が、自分の意志(思考)によって行為していると。

しかし、実はそうではないんですよね。

ともあれ明け渡しとは、このことに気づくことがその第一歩になります。自分は行為の主体ではないと気づくことが、その主体の座を神に明け渡す最初の一歩になります。でも、行為の主体の座を神に明け渡すとはいっても、そもそもわたしたちが行為の主体であった試しはないのですから、本当のところは明け渡すのではなく「返す」というほうが正しいのです。これについてはあとでもう少し詳しく説明します。

真の謙虚さは、自分はあらゆる行為の作者ではないという確信です。

ウェインは行為の主体のことを「行為の作者」と呼んでいます。そして、本の別の場所には「作者錯覚」という言葉も登場します。これはすなわち、自らを行為の作者であると錯覚していることを指しています。作者錯覚は意識がエゴと一体化することによって起きます。つまり、ほぼすべての人は作者錯覚を起こしています。

「自分はあらゆる行為の作者ではないという確信」とは明け渡す決意といってもよいでしょう。そのような決意が生まれるのは、本当に謙虚になれたときだけです。自分が行為の作者であるという思いはとても傲慢です。なぜなら、行為の作者であるという割に人は自分の行為をなにひとつコントロールできないからです。いや、なにひとつってことはないぞ!コントロールできることだってあるもん! と思った人、その思考はあなたのコントロールの外だったことに気がつきましたか?😆 

ちなみに余談ですが、明け渡しとは英語では surrender というようですが、サレンダーは放棄する、返却するという意味のほかに、降伏するという意味で使われることもあります。わたしたちが霊的な文脈において使っている「明け渡し」という日本語はこのサレンダーを翻訳したものなのですが、個人的には明け渡しという日本語よりも英語の surrender のほうが言わんとしていることをより正確に指し示していると思います。

さて余談ついでにすこし回り道をします。

バクティであれ、ジュニャーナ(智慧の道、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなどの教えを学ぶことによって知的な理解から真理へと飛躍することを目指す道)であれ、たどりつく真理はおなじです。当たり前のことですが。

それはもう何度も何度も言っていますが「すべてはひとつである」ということです。ラメッシの言葉を借りれば「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」ということです。つまり、この世界にはたった一つの意識だけがあり、目に見えるあれやこれやや、わたしやあなたといったもののすべてはこのたった一つの意識というスクリーンの上で上映されている映画の中身でしかないというわけです。

このことを別の観点からいうと「分離はない」となります。分離(独立して存在)しているように見えるのは幻想というわけですが、ここからエゴ(自我)は幻想であるという話になりますし、自我が幻想なのですからブッダが言ったように、わたしたち人間は行為の主体ではない(行為者の不在)ということになるのです。

では誰が行為の主体なのかというと、ラメッシの言葉でいえばそれは「全体性」であり、奇跡講座などのキリスト教的な文脈でいえばです。ここではイメージしやすい神で話を進めますが、神が唯一の行為の主体であるとするならば、わたしたち人間は誰一人例外なく「神によって行為させられている」ということになります。そして行為にはそれに先立つ思考がありますね。すなわち思考もわたしたちがしているのではなく、「神によって思考させられている」のです。これが自由意志の不在ということの道理です。

さて、ここまではよいでしょうか?

ここまでのことを正確に理解されたなら、わたしたちにはそもそも明け渡すことなどできっこないという話もお分かりいただけるかと思います。つまり、明け渡しというのは英語の surrender における「返却する」のニュアンス、つまり自分のものだと思いこんでいた行為の主体の座を神に返却するというものだと理解すればよいわけです。また、わたしの時もそうでしたが、明け渡しが起こるのは往々にしてエゴが屈服させられたとき、すなわちエゴが降伏するときです。この意味でも surrender はよくできた言葉だと思います。

それでは引用文の続きをみていきましょう。

明け渡しについて憶測する場合、自分よりも偉大な力へ明け渡せば何もしなくて良いのだと想像しがちです。神が為すのを一日中ただ座って待っているという具合です。

実際にこういう人がいました。以前わたしの記事にコメントをくれていた人が「自分はバクティをやっていて、そうしたら生活保護がもらえた。もうわたしはなにもせずただ神に任せるだけで生きていける。どうだ羨ましいだろう!」と言ってきたことがあります😆 嘘だと思うでしょうがこれは本当です。コメントのやり取りは色々あって削除しましたけど。

まあここまで思い違いをしている人はさすがに少ないと思いますが、でも実際のところバクティをなにか成功法則や願望実現法のようなものと取り違えている人はいるようです。もっとも、「神に任せるだけで生きていける」というのは確かに「それはそう」なのです。取り違えているのは「神に任せる」とはどういうことなのか? という部分です。

つまるところバクティ(明け渡し)とは「自分は行為の作者ではない」ことを認めることなのですが、認めようが認めまいが、わたしたちが行為の作者ではないことはお話してきたとおりです。しかし、だとするならあえて認めることによってなにが違ってくるでしょうか? 行為の作者が神であると認めるということは、わたし(自分)は「神がすべてを司っている全体性の一部」であると認めることと同じです。

このことが決定的な違いを生み出していくのです。

この理解が見るものすべてに調和を見出させ、エゴはこの調和の中に溶けていくのです。端的に言うなら、いままでは「なぜ自分が?」と思ってやらなかったようなことを当たり前にやるようになっていきます。調和がそこにあるとき、それは、その場のすべてが運命に沿って流れているということを意味します。そして神がすべてを司っているのですから、調和のないところなどありません。分離したエゴの視点に調和は見えなくても、神の視点には調和しか見えないのです。

つまり、明け渡しとはエゴの視点を放棄することです。神に任せてたら神がぜんぶいい感じにアレしてくれるというようなことではありません。そうではなく、自らが神の代わりに仕事をするのが明け渡しです。明け渡しとは肉体精神機構を神の仕事に提供することです。そこにある調和に溶け込むことで自然と自分の役割は(神によって)果たされるのです。そして、そのようにして神とともに働いていれば、そこに苦悩はありません。なぜならもはや自分は行為の作者ではないのですから。

ポイントは調和です。「いまここには調和がある」という理解は実際にそこに調和を見出します。調和を見出しているとき、そこで自分がなにをすべきかという思考はありません。果たすべき役割があり、その役割は果たされます。例えば目の前で誰かが苦境にあるとします。エゴの目にはそこに不調和が見えます。なぜならエゴはその人の苦境を「面倒なこと」と思っているからです。しかし神の目にはそのような不調和はありません。なぜなら、あなたがその人に力を貸すことができるからです。

それは私の経験とは違いますし、憶測を超えて実際に明け渡しと探求の道に踏み込んだ他の多くの人の経験とも違います。ほとんどの人にとって実際、明け渡しによって生じる束縛からの解放は、活力を与え、想像もしなかった方法で力づけてくれるものとなります。

繰り返しますが、明け渡しは「難しいこと、面倒なこと、辛いことはぜんぶ神に丸投げ」することではありません。「なにもしなくても、聖霊がぜんぶいい感じに導いてくれる」そんなわけないです。

明け渡しは自らを調和している全体性の一部であると捉えることです。自らを調和のなかに溶け込ませると、エゴの思考の代わりに直感内なる声がやってきます。肉体精神機構は直感のままに神の仕事を果たします。万事がこのようになっていけば、そこにはもはやなんの束縛(~すべき、~してはいけない)もありません。解放された肉体精神機構はますます活性化し、よりよく世界に貢献するようになるでしょう。

さて、明け渡しについて様々な角度から見ていきましたが、いかがでしたでしょうか。思ってたのと違う、と少々がっかりした人ももしかしたらいるかもしれませんが、はっきり言うならそのような人はまだ明け渡しについて考える段階にはありません。だって、明け渡したところでエゴにはなんの得もないばかりか自らの存在が否定されることになるわけですから。すくなくとも、エゴは無力だということを薄々にでも思っている人でなければ、明け渡しについて本当に知ろうとは思わないでしょうし、知ろうとしたところで都合のよいようにしか理解できないことでしょう。

ほんとうに明け渡したいですか? 明け渡すと、もはや自分のためになにかしようとは思わなくなりますよ? というより、自分というものはただの道具でしかなくなりますよ? ただし、それは神の道具です。神の道具として働くことが素晴らしいことだと思えるなら、どうぞこのまま明け渡しに取り組んでみてくださいませ😉✨️✨️

【おまけ】

なんかよく分からないけど好き。

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