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空間の優しさについて

電車の中で起きた事件を聞くと、その背景とかそんなことよりも、電車の構造そのものに考えが行く。あれってもっと風通しよくならないのかな、地下鉄の駅の陰鬱な雰囲気はどうにかならないんだろうか。そういうところが少しよくなるだけで、人の感情とか行動って変わるんじゃないか。

中学時代、修学旅行先は東京だった。人の数に圧倒されて、電車の本数とその混み具合に動揺しながら「ウチら一本見送ることにした」「だよね……」みたいな会話を、駅のホームで交わした。人で溢れかえる電車は、それ以来「東京」の象徴になっている。

居心地のいい場所でなら犯罪は起きない、なんて悠長なことを言う気はない。でも何かしらの犯罪──とりわけ殺傷事件──が起きると、どうしてもその場の環境がどうだったのかが気になる。いつだったかの長崎の、小学生殺傷事件も、今回の小田急の一件も。

その場所の雰囲気が、もうちょっと優しければ。気持ちいい風が吹いていたり、行き交う人々がもう少しだけ柔らかい表情をしていたりすれば、ひょっとしたらひょっとしたら、結果は違ったかもしれない。そんな淡い可能性について考える。

学校っていう閉鎖的な空間、その建物、あるいは常に人でごった返す東京の電車、それらの空間の非人間性については、あまり語られない。みんな「犯人の動機は」「悪いのは誰か」と原因を考える。ここで「空間デザインの問題ではないか」と言ったところで相手にされないだろう。それはわかっている。わかっているけど、やっぱり考えてしまう。

あの駅っていう施設は、もっとどうにかならないんだろうか。雑に言うと人に優しくない。誰もが右利きである前提で設計された改札、チャージが1円足りなければ警告音が鳴り、後ろから来る人が迷惑そうな顔になる。電車の座席は当然、見知らぬ人と隣合わせになる設計で、相手によっては身体が触れることになる。「パーソナルスペース」なんて贅沢品だ。

それがみんな「当たり前」だろうか。そういう小さな「これくらいのことは当たり前なんだから我慢しろ」が積み重なって、電車に乗っている人々の顔が少しだけ不機嫌になって、不機嫌になった人は他人にちょっとだけ辛く当たるようになって……。そうやって細かな負の連鎖が積み上がった上に、ある日とつぜん「キレる」人が出来上がる、そういう言い方もできるんじゃないだろうか。「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいの話ではあるけど、人を取り巻く環境が人に優しくない、この一点はもっとちゃんと考えられるべきだ。

駅や電車がいきなりその姿を変えることはないだろうから、個人レベルでできることは、混雑を避ける、距離によっては徒歩や自転車で移動するなど限られるけれど。テレワーク推進下で満員電車が緩和されたのは嬉しかった。痴漢の件数が減ったのだ(もっとも宣言解除でまた増えた)。犯罪はもちろん悪いことだけれど、それを引き起こす環境にもっと目が向けられたら、と思う。電車が空いているだけで、痴漢って減るんだよ。もちろん冤罪の数も。

これから高齢者が車を手放すようになれば、移動手段になる駅や電車も、それに合わせて変わっていかなきゃいけないだろう。実際にいま「MaaS(マース)」と呼ばれる取り組みが政府広報で紹介されていて、公共交通機関の連絡をスムーズにし、利用を充実させることで、マイカー依存を脱しようという流れがある。

そうなったときに、あらゆる人を取り巻く施設が、このままでいいんだろうか、と思う。もっとすべての人の優しい空間にならないだろうか。お年寄りにとって駅構内の複雑な乗り継ぎは難儀だったりしないか。小田急の一件から「空間の優しさ」について考える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。