耳が痛くなる話
妊婦に向けた本──というのは、怪しいものから単に身体的なアドバイスまでいろいろあるのだけど、読んでいるとこんな文章があった。「親に問題があるうちは子どもを望むべきではない、まず自分の境遇と向き合い解決すること」。
なんか漠然とした内容だ。「問題がある」の線引きはどこにあって、その線は誰が引くんだろう。そもそも一切の問題がない人っているのか。そういう人しか親になってはならないとすれば、ずいぶんハードルが高い。
それでも、言っていることがわからないわけじゃない。たとえば親とのあいだに深刻な確執がある人は、子どもに愛情深く接するのがむずかしくなるかもしれない。自分が生まれたこと自体を呪っている人は、生まれた子どものこともそう感じるかもしれない。
自分はどうなのか。親との間になんのわだかまりもないとは言えない。とりわけ子どもの頃の母との関係は、正直くり返したくない家族の歴史になっている。
子ども、と言ってもまだ10歳に満たない頃だ。母は、子どもである兄と私をかわいがってくれた。同時に、他の身内から引き離そうともした。姑だった祖母は、恰好の敵だった。
おばあちゃんが可愛いのは兄だけで、あの人は女の子のお前なんか要らなかった。おばあちゃんがブランド物に執着して浪費するからウチにはお金がない。おばあちゃんがうるさく口を出すから、お母さんは自由に外を出歩くこともできない。
そういうことをときどき言われた。すべてが母からの伝聞だった。
当時のことを思い返してみる。そもそも祖母は、そこまでブランド品が好きだったのか。なるほど着ていたパジャマは、常に百貨店で揃えられたものだった。花柄の、そこそこ品質のいい、マダムたちがそれなりにお金を出して買う類の。
だけど肝心の服やバッグに関しては、そこに「GUCCI」とか「PRADA」とか書かれていることはなかった。値段は安くなかったかもしれないし、母の服装がいつも質素だったのを思えば、確かに贅沢には見えただろう。ただブランド狂いというほどじゃない。
そしてまた、祖母は兄だけでなく、私とも遊んでくれる人だった。当時、祖母は日本画を習っていて、わたしの手首まわりに絵筆で腕時計を描いてくれた。時計の針が差しているのはいつも、おやつの時間の3時だった。
母と祖母のあいだに何があったのか、詳しくは知らない。ひとつ言えるのは、母から吹き込まれた話が自分にとって毒だったということ。同じ家に暮らしている大人が、自分のことを快く思ってないという話は、子どもには苦しいものだった。
話の一部は確実に、母親の虚言癖による捏造だったと思う。そこには「子どもに心配/ケアされたい」という願望や、日頃のストレスを自己憐憫で解決しようとする姿勢が見える。一言なにか言えるとすれば「子どもを巻き込むな」という、それだけだ。
この手の話は、残念ながらあるあるらしい。母親が、夫や周囲の大人の悪口を吹き込むことで子どもを味方につける。自分をかわいそうな存在だとアピールすることで、子どもから同情や関心を誘う。
もちろん、そこにはそうなるだけの理由があるんだろう。配偶者がろくに育児を手伝ってくれなくて、孤立した気持ちになっているとか。自分ひとりだけで闘っている状況になり、気持ちに余裕がないとか。
でもそのどれも、子どもの自尊心に手を突っ込み、かき回していい理由にはならない。母親に向かって「子どもが聞いたら絶対にいい気分にならないんだから、そんな話するのやめなよ。なんで黙ってらんないの?」と言えたらいい。いまだに口に出せないけど。
幼い頃のことを思い出そうとしていたら、耳がキィンとなって聞こえが悪くなったので、しばらく休憩。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。