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哲学ノート⑪絶望は死ぬことができない

「死に至る病」……と言っても、脳梗塞とか心臓発作とかではなくて(もちろんこれらも健康上の大問題だけど)、「絶望」のことを指す。キルケゴールの著書『死に至る病』は、まさに絶望を巡って書かれている。

キルケゴールについて少し述べておくと、彼はクリスチャンだった。神学を学ぶキリスト教徒の青年。こう書くと、まるで『椿姫』のアルマンのような、一途な好青年を思い浮かべそうになる。キルケゴールのことを「敬虔なクリスチャン」と言う人もたまにいる。だけど実際には、愛し合っていたはずの娘との婚約をいきなり破棄し、言っていることも時々つじつまが合わない、そんな哲学者だった。

なにせ本の訳者がこう言うくらいだ。

彼の著作は体系性や整合性に欠ける。話はたびたび本筋からそれるし、用いられる概念が曖昧なままであることも多い。さらにいえば、彼が好んで使う比喩的表現が的外れであることも、ちょくちょくある。(※1)

比喩表現が的外れ……。読んでいて少し悲しくなるくらいの批評である。例え話がハマっていないときって、後味が悪くて間が悪い。それを指摘されるのは誰でも辛いと思う。「だけど」と訳者は続ける。

それでも、である。それでも彼の著作にはやはり読むだけの価値がある──ずっとそう確信していた。(…)彼の日記を繙いてみるとよく分かるのだが、キェルケゴールという人は、明けても暮れても(この表現には何の誇張もない)自分の信仰のあり方について思い悩んでいた。自分が生まれて生きていることに違和感を覚えながら、自分の生の意味を、自分に向けられているはずの神の意志を探し求めて、必死に考え続け、そして生き続けたのである。(※2)

キルケゴールは、実存主義の先駆者と言われる。実存、現実にあるこの私、このたった一人の私について考え抜くこと。他の人が代わりに生きることのできない自分、大衆に染まることもできない、たった一人の自分についての哲学。信仰と哲学の狭間で、それを遂行した人だった。

たった一人の自分のことを、キルケゴールは「単独者」と言う。ドイツ語ではこれを「der Einzelne(デア・アインツェルネ)」と呼ぶ。日常的な用語では「個人」という意味になるけど、キルケゴールの言う単独者は、もっと他者から切り離されていて、もっと孤独だ。誰にも苦しみを理解されず、死ぬこともできずに絶望するような。

絶望の苦悶とは、死ぬことができないというところにある。だから、絶望は、横たわって迫りくる死に苦しめられながらも死ぬことができないという瀕死の状態と、似たところが実に多い。死に至るまでに病んでいるということは、このように、生きることへの希望があるわけでもないのに死ぬことができないということなのである。
(…)
絶望者は死ぬことができないのだ。(※3)

(続)

※1:セーレン・キルケゴール『死に至る病』鈴木祐丞訳、2019、講談社学術文庫、289-290頁
※2:同上
※3:同上、34-35頁

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。