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【詩を紹介するマガジン】第14回、茨木のり子

 茨木のり子には、いつもどこか「女」を感じる。それは大和なでしこ的な女らしさではなくて、一本芯の通っているあの感じ。女の人にしか出せない、気迫のある強さ。そういう意味での「強い女」。
 
 強い女にしか書けない詩がある。茨木のり子の代表作はほかにあると言われがちだけど、自分が紹介したいのはこの一篇になる。

「聴く力」
 
ひとのこころの湖水
その深浅に
立ちどまり耳澄ます
ということがない
 
風の音に驚いたり
鳥の声に惚けたり
ひとり耳そばだてる
そんなしぐさからも遠ざかるばかり
 
小鳥の会話がわかったせいで
古い樹木の難儀を救い
きれいな娘の病気まで直した民話
「聴耳頭巾」を持っていた うからやから
 
その末裔(すえ)は我がことのみに無我夢中
舌ばかりほの赤くくるくると空転し
どう言いくるめようか
どう圧倒してやろうか
 
だが
どうして言葉たり得よう
他のものを じっと
受けとめる力がなければ

 「コミュニケーション能力」が生きるのに必須になっている現代だから、みんなよく喋る。SNSでもリアルでも、とりあえず口がうまいと勝つ。誰かを言いくるめないと自分が不利になるから、言葉は資本になり競争の武器と化す。
 
 そういう時代に「聴く力」と言ってみても空しいだけなのかもしれない。だれかの心の湖水の、奥深くの沈黙を聴く。そんな能力がお呼びであった試しがない。しゃべる時代に、耳を澄ますということは、愚かしい行為でしかないのかもしれない。
 
 でも耳を澄ました人からしか、血肉のある言葉は出てこない。人の話を表面的に理解し、表面的に切り返す人からは出てこない。ひとの心はいつだって割り切れなくて、言葉にならない感情のほうが、なる感情よりもずっと多い。そこにどこまで耳を澄ませるだろう。
 
 「他人との関係が悪い人はね、自分ともうまくいっていないんです」。大学の教授がかつてこう言っていた。自分の、言葉にならなかったたくさんのことを見過ごす人は、他人のそれにもきっと気づけない。思えば、どれだけのことを言わずに過ごしてきたんだろう。
 
 言わなかった、言えなかった。心を湖水にたとえたら、水の大半がそういうことでできている。思っていたけどなかったことにした。言葉に出せば取り返しがつかなくなりそうだから、そのまま思うに留めた。口にされなかった言葉の数々。
 
 それは他のだれかだってきっと同じだから、互いに言わなかったことでできている。伝えようと思って伝えそびれた気持ち、言葉にすると取り返しがつかないことは、言葉にしなくても取り返しがつかない。伝える機会が二度と巡ってこないこともあるから。
 
 「他のものをじっと受けとめる」ができるのは、自分に対しても同じようにできる人だけだ。言わなかったすべてを、なかったことにして片付けるんじゃなくて、傷ついたとか嬉しかったとか好きだったとか本当は嫌いだったとか、それらに耳を傾けること。
 
 立ちどまって耳を澄ませたところで、しゃべりはうまくならないけれど。コミュニケーション能力が爆上がりしてQOLが最高潮に!みたいな話では全然ないけれど。でも無意味じゃない。言葉は、そういう体験からしか満ち足りてこない。
 
 深みに耐えられるのは強い人だけだ。表面的に生きる人は、深いやり取りも交流も嫌う。自分だって怖い。自分が理解されて、理解されたあげくたいしたことなかったと思われるより、知られていないほうがずっといい。深みに耐えられない人間は、弱い。
 
 弱いからよく吠える、弱いからよくしゃべる。そういう人間のことを、茨木のり子は横目で見ている。強い女は吠えない。代わりに静かに詩を書く。静かに、決しておとなしくない詩を書く。
 
 武器でも資本でもない、この言葉の使い方はとても正しく見える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。