【詩を紹介するマガジン】第8回、石垣りん

切り詰められた生活の切実さ、ただ「生きる」ことの圧倒的な重み、愛という言葉でコーティングされる人の醜さ。日常の残酷さから目を背けることのない人だ。石垣りん。いつか取り上げようと思っていたけど、気持ちに弾みがつかなかった。

紹介する詩を一本に絞ることができない。どれもこれも読んでいて「痛い」。その中でも以下の詩は、働くことを表現した一篇として最高峰だろう。

「貧しい町」

一日働いて帰ってくる、
家のちかくのお惣菜屋の店先きは
客もとだえて
売れ残りのてんぷらなどが
棚の上に
まばらに残っている。

そのように
私の手もとにも
自分の時間、が少しばかり
残されている。

疲れた
元気のない時間、
熱のさめたてんぷらのような時間。

お惣菜屋の家族は
今日も店の売れ残りで
夕食の膳をかこむ。

私もくたぶれた時間を食べて
自分の糧にする。

それにしても
私の売り渡した
一日のうち最も良い部分、
生きのいい時間、
それらを買って行った昼の客は
今頃どうしているだろう。

町はすっかり夜である。

私たちが日頃、本当は何を売り買いしているのか、それが痛切に表されている。サービスを受けている、商品を買っている、そのつもりで実のところ他人の時間を消費している。他人の、一番いい時間、昼間の時間。

石垣りんは、それがいいとも悪いとも言わない。ただ目の前に残された──本当なら目に見えないはずの──時間が見えている。自分の残されているのは「熱のさめたてんぷらのような」ところだけ。その侘しさが胸に迫ってくる。

「労働」の二文字にまるで縁のない、小さい頃に既に接していた詩だけれど、その物悲しさは子どもの心にも残った。「熱のさめたてんぷら」がどれくらい哀しいかは、いかに幼くても理解できる。あまりに秀逸な比喩のせいで、子どもは大きくなってもこの詩を忘れなかった。

石垣りん本人についても書いておこう。彼女はみずほ銀行の前身、日本興業銀行で定年まで勤め上げた。当時、給料は袋に入れて渡すのが普通であり、この「月給袋」という存在も、彼女の書くものによく出てくる。働くことと密接に結びついているこの袋も、生活の重みと密接に結びついている。

いまはそういう「物」として給料を目にすることがないから、感覚としてわからなくなっているけれど、それはどんな感じだったんだろう。一か月、働いて給料袋を受け取り、その中に紙幣が入っていて。それなりの厚みを持った封筒を手にしたとき、しかしどこかでよぎるんじゃないだろうか。「こんなもののために働いているのか、でもそうしなくてはならないんだ」そういう思いが。

石垣りんの詩はいつも「生活」している。料理をし、働き、家を守る。決して遠くに飛んで行ったり、理想を夢見て陶酔したりしない。というよりできない。あらゆる現実の生活が、彼女にそれを許さなかった。

戦後を代表する「女性詩人」と紹介されることもあり、それはまったく事実なのだけれど、引っかかりも覚える。石垣りんの詩は、女の力強さとか女性のたくましさとか、そういうものを感じさせないからだ。日常への、冷たく鋭いとも取れる眼差しは、もはや男性/女性とくくる気になれない。強いて分けるなら「働く人の詩」だろうか。

書いたものを切り貼りする野暮は承知の上で引用すると、他の詩にはこんな部分もある。

この家に必要なのは
もはや私ではなく、私の働き
この家の中に私はこうして坐っているが
月給をいれた袋のよう
私の風袋から紙幣を除くと何もないのだ
この心のむなしさ。

──「いじわるの詩」から

この心のむなしさに、男女の別があるはずもない。女性詩というより「生活詩」がふさわしいような、そんな人。石垣りん。


https://honto.jp/netstore/pd-book_27473138.html

楽天ブックスはこちら『石垣りん詩集』

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。