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もしも叶うなら

 「すべてなかったことにしたい」という気持ちがどこかにあることを考えている。SEKAI NO OWARI「タイムマシン」を聴きつつ。

タイムマシンに乗って チクタク チクタク
君といた記憶を消し去るために
こんなに苦しいなら 君に出逢う前に
すべてなかったことに

SEKAI NO OWARI「タイムマシン」

 そうだなあ。タイムマシンに乗れてなんでもできるとしたら。だとしたら、自分が生まれなかった世界を見てみたい。最初からすべて、なかったことになっている世界。
 
 兄の次に生まれた自分は、両親からすれば想定外の子どもだった。2人目を育てる気はなかったのに、と言いつつ、とりあえずはできたから育てた子ども。もし予定調和に兄だけ生まれていたら、家族はどうなっていたんだろう。
 
 少なくとも兄は「兄」ではなく、一人っ子になっていただろう。あの家庭でたった一人の子どもとして生きるのは辛かっただろうから、この点に関しては自分がいただけ、マシだったような気がする。
 
 「そもそも存在をなかったことにしたい」という思いは、希死念慮とはぜんぜん違う。生まれて生きてるんだから、それなりにこれを続けるだろうと思う。そうやって生きていながら「すべてなかった世界」を考えてしまうことはある。
 
 自分が「いなければよかった」ではなく「いなくてもよかった」とは感じていて、両者はぜんぜん別のことだ。「ここにいるのが自分じゃなくて別の誰かだったら、もっと周囲にとってよかったのかもしれない」もある。
 
 でも「いまここに存在している」っていう事実はどうしようもない。どうしたって、ここにいるのは彼ではなく彼女ではなく自分なのだし、めんどいなと思っても放棄できないし。この面倒さとか重たさっていうのは、生きてる限り付いて回るんだろうし。
 
 もしもできるとしたら夢でいいから、自分のいない世界をずっと映画のように見ていて、途中でだんだん意識が遠のいていってフェードアウトしたい。どこかにブツッと明確な終わりがあるのではなく、すべてが薄くなっていって、最後にはまっさらになるように。
 
 夢というのは、望めば希望通りの展開を見ることができる……と言われるけど、どうなんだろう。自分は1,2回しかできたことがない。そして不可能なことを希望すると、目の前が暗くなり、稲妻みたいな光が走って目が覚める。こういう体験は1回した。
 
 夢の中で乗ろうと思えば、乗れるんだろうか、タイムマシン。そのまま本当に消えてしまったらどうしよう、それはそれで悪くないかな。
 
 なんてことを考えていると、実はそうやって消えた人がたくさんいるんじゃないかって気になってくる。本当はときどき「誰か」がふっと消滅しているのだけど、気づかないまま生きているんじゃないかって。
 
 別にそれでもいいな。それでも日々は続くから。
 
 何かを思い出せそうで思い出せない瞬間や、なぜか既視感のある場所に出会ったときは、ひょっとしたら消えた記憶と出会っているのかもしれない。だとしたら、自分が消えたときにも、それくらいの手触りで「思い出す」人もいるんだろうか。
 
 こんなことを考えるのは、自分が利己的な人間だからだろう。志高い人なら、タイムマシンがあればあの災害やあの悲劇を止められたと言って、過去の辛い出来事を修正しようとするだろう。
 
 正しい使い方だと思うし、そういう歴史修正がみあたらないあたり、未来永劫この手のマシンができないことの証左だとも思う。だから「すべてなかったことに」できる日は永遠に来ないし、このまま生きていく以外に道はないのだけど。

前も見れないけど 上も向けないけど
僕を見つめていこう

同上

 世界の終わりはもうすぐアルバムリリースらしいので、この曲もしばらくラジオで聴けるだろう。いまいる誰かがみんないる世界で。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。