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カオスの一部で生きていく

 勤めている建築会社は、いままで基本、大卒以上しか採用していなかった。それが最近高卒も対象になったので、週明けの会議で話題になる。
 
「どんな感じです?大丈夫なの?」
「いやよかったよ。東北まで行って会ってきたけど俺。すごい前向きなの。この会社入れるなんて思ってもいませんでした!とか言われちゃって」
 
 会社に、高卒の人が一切いないわけではない。たとえば派遣で入ってきて、働きぶりがよければそのまま正社員になれる。そういう道もある。
 
 とはいえ、最初の門が開かれたことは大きい。地方の人手不足という背景はあれど、いろんな経歴の人がいるのはいいことだと思う。同じような経歴、同じようなキャリアの人ばかりが集まると、どうしても偏りが出てしまう。
 
 むかし「なぜ昭和時代には活気があったのか」が書かれている本があって、その著者の答えは「いろんな人が社会に出ていたから」だった。中卒でも誰でも社会に出た。特に戦争から立ち直っていくときには、学歴がどうとか言っていられない。そもそも戦時中に、十分な学歴を身につけた人など少ない。
 
 混沌とした社会の中で、背景のさまざまな人たちが出会う。そこに活気が生まれる。カオスこそがパワーなのだ。そういう分析だった。
 
 自分の叔父は中卒で社会に出た。当時、会社といえば社員は家族みたいなものであり、叔父もいろいろなことをそこで学んだ。出入りする客先がいいところだったので、茶道も華道も心得がなくてはならない。そういうわけで、叔父もまたそれらを叩き込まれた。
 
 叔父さんは戦争孤児だったから、小さい頃は裕福さと無縁で、よって進学もできなかった。それでも早く社会に出た分、人よりも働いて、億単位の仕事も任されるようになった。70代になった今は、名古屋駅近くに買った小さな家に、叔母と二人で住んでいる。
 
 そういう人が身近にいるのもあって、学歴と仕事の能力を結びつけて考える思考回路が、自分には薄い。もちろん大学で学ぶ知識がないとできない仕事はたくさんあるけれど、それ以外なら働き手は若いほうがいい。会社もそう考えたのかもしれない。
 
 こういう風潮は、文系の大学院を出た自分にはモロに突き刺さる。理系の学があるわけでもないのに、歳だけ取った人間がなんの役に立つんだよ?と言われればそれまで。雇ってもらえてよかったですね、ホント。
 
 ただ「いろんなキャリアの人間がいたほうが活気が出る」という、かつて読んだ分析を信じるなら、自分みたいなのもいていい。これからも積極的に社会の多様性を担保していきたい。
 
 別に社会の活気のためだけじゃなくて「身近にいろんな人がいる」「同じ社会で生きている」と間近で見て悟るのは、誰にとっても悪いことじゃない。自分のいる狭い世界だけ見て生きると、どうしても視野が狭くなる。他者への想像力を失ってしまう。そして、想像力を失った社会は危うい。
 
 自分が進まなかった道を歩んだ人がいて、その人たちと同じ社会で生きている。その自覚は、いつだってとても大事なものなんじゃないかな。誰かを自然と「いないこと」にしてしまうのは残酷なことで、中卒の人も高卒の人も、文系院卒の人も社会にはいるよ当然。
 
 大学に入って以降は「大卒で当然」みたいな空気がまわりにあって、正直すこし息苦しかった。高卒で働いているかつての同級生たちや、「中卒だとコンビニのバイトもできない」と言って、頑張って高卒認定を受けていた友達が、まるで最初からいないような空気。これでいいんだろうかとモヤモヤしながら何もできなかった。
 
 少なくともどこかの現場では、いままでと違う基準で採用された人が働き始めた。それはちょっとだけ、いいニュースだと思っている今日。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。