ずっと賢さに憧れている

 「絶望は愚か者の結論」だと言われる。悲観して絶望してしまうのは楽なことで、「終わった」ことにしてしまえば、それ以上なにもしなくて済む。それは楽ではあるけど怠惰であり、もっと言えばバカなのだ。
 
 逆に、賢い人は希望を見つけ出す。どうにか事態を突破できないか、あるいは明るい見通しがどこかに見出せないかとあがく。自分が「賢い」という言葉に感じるのは、そういうことだ。希望を持ち続けて、あがき続ける力と言ってもいい。
 
 だから「賢い」が意味するのは、学歴とか知識の多さとかそんなことじゃなくて、まずは絶望しないことなんだと思う。「わからん」「無理」「ハイもうおしまいおしまい」と片付けるんじゃなくて。自分にはできないと早急に見切りをつけるんじゃなくて。
 
 賢くなりたい、ということは今は賢くないということで、自分にこの悲観的な傾向は多分にある。目の前の仕事がめんどくさそうだったり、ちょっと工程が多そうだったり、なんだかそういうのを見ると「逃げていい?」になる。簡単になる。
 
 だって逃げるほうが楽ですもん。それで逃げ続けて逃げ切れたら言うことなし。でもそれをやってる大人って普通にダサくて、ああはなりたくないという一心からどうにか頑張ろうと思う。
 
 「賢い」は希望を見出せるということで、過去じゃなくてこれからを見据えて話ができるということで、それができる人間であれたらいい。こういうことはずっと思っている。そういう賢い人に憧れている。ずっと。
 
 賢い人は物事を解決できる。そうでなくても、解決しようとあがこうとはする。その最初の胆力というか、あきらめないで着手する力がないと、どんな知性も無駄に終わるんだよな。
 
 世の中には、頭はいいはずなのにそれを悲観的に使う人が絶えない。「もう終わりです、理由はこれこれで根拠はこれです。みんなで絶望しよう」みたいな。せめて一人で絶望してくれればいいのに、他人を巻き込むからタチが悪い。
 
 「ねえみんな、これってひどいよねー?!」「ホントそれー!」みたいなコール&レスポンスをしたがる人も後を絶たない。ひどいと言うわりに何も改善しようとしない。暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけなさい。
 
 絶望したがる人は人を巻き込む。終わりだ終わりだと騒ぎつつ、誰かが抜け駆けして希望を持つことは許さない。そのへんが、見ていてやだなと思う。自分が悲観主義者を嫌いな理由であり、うっすら馬鹿にしている所以でもある。
 
 あがき続けるのは泥臭いし、泥臭いことは冴えないし負けることもあるし、それくらいなら「ふっ、もうあがいて無駄だよ。みんなで滅びようぜ……」と気取りたくなるかもしれないけど、それ馬鹿だからね。賢い人は時に泥臭い。
 
 手を動かすことを嫌い、考えることを嫌い、泥臭いのも汗臭いのも嫌っていると、人間バカになるのだと思う。賢いとは実のところ「スマート(頭がいい)」とは全然べつの意味で、もっと人間臭いものなんだ、きっと。
 
 以前は「常に冴えていて負け知らず」な、いかにも強い鋭利な感じのひとが「賢い」ような気がしていたけど、そうじゃない。負ける時もあるし、冴えない時もあって、それでも諦めなかったことが、時には知性と呼ばれるんだ。
 
 そういう風に考えると、なんとなくまだ自分にも希望があるんじゃないかって思える。生まれつき常勝の人だけが賢いわけではない、だとしたら、わたしもまだ「ちょっとでも冴えないことがあったら永遠に賢い人にはなれないんだ、わああ」と絶望しなくていい。
 
 賢さにはずっと憧れている。憧れることをやめずにいれば、いつかは理想に近づけるかもしれない。そういう淡い期待を失わない程度には、賢い人間でありたい。

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