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シュクラン、メディナ

 「アッラーアクバル」まだ薄暗い早朝、モスクからのアザーンで僕は叩き起こされる。この1ヶ月、僕はメディナ(旧市街)の中のモロッコ人家庭にホームステイすることになったのだ。メディナの中にいくつかあるモスクはオオカミが遠吠えを競い合うようにアザーンを叫ぶ。これはイスラム教のお祈りの時間を知らせる呼びかけで、言ってみれば日本の地方でも時々ある街全体に流れるお昼のサイレンのようなものである。ただ、アザーンはサイレンと違って生声がスピーカーから流れる。それぞれのモスクの担当者は、自分の声が一番とばかりにアザーンを唱える(というか叫ぶ)のだ。しかし、お祈りの習慣のない異教徒の僕としてはこれは迷惑極まりない。朝の6時くらいにこれをやられるのならまだ目覚まし時計代わりにも思えるのだが、毎朝3時や4時に叩き起こされた日には大変だ。イスラム圏に旅行される方は、もし安眠したいのなら宿の近くにモスクがないことを確認した方がいい。
 そんな訳でメディナの朝は始まるのだが、朝早く叩き起こされることを除けば朝のメディナは実に清々しい。間口1間ほどの商店が細い路地に軒を連ねるスークは、大勢の人で賑わうイメージがあるが、朝の通勤、通学時間帯は通りを行く人もまばらで、店の人が店の前をほうきで掃いたり、水を撒いたりしている。店の軒下で夜露をしのいだ猫たちは(メディナの中は猫が多い)背中を丸めて、まだ眠いや、といった様子で通りに一定の間隔で並んでいる。それはその後の戦いのような時間に向けての嵐の前の静けさのように思える。
 夕方、買い物客で賑わうメインストリートの喧噪はメディナの最も代表的な顔だ。道の両脇に並ぶ店にはありとあらゆるものが並び、通りの真ん中にまでシートを広げてところ狭しと品物を並べている。買い物客が通りを隙間なく埋め尽くし、思い思いのペースで歩いては立ち止まる。それはスークの発するエネルギーがピークに達する時間だ。僕はちょうどこの時間帯にメディナの中を通って帰宅するのだが、実際前に進むのもままならない。常に右に左に人を避けなければならないし、前を歩く人が知り合いに会って突然握手したり、頬にキスをしたりし始めるともう逃げ道がなくて前がつかえてしまう。自分の気持ちに余裕がある時は、それが終わるのをボーッと待っていればいいのだが、急いでいる時や気分が落ち込んでいる時などはその喧噪が発するエネルギーに飲まれて疲れてしまう。
 そんな時、僕はフッと道を折れて、細い裏通りに入る。メインストリートのざわめきは一気に遠のき、それとは対照的な静寂が訪れる。住宅地の細い路地は人影もまばらで、ジュラバ(フードのついた丈の長い筒頭衣)に身を包んだ人々はまるで影のようにゆったりと歩く。家々の高い壁に挟まれた狭い通りを見上げると青い空が切り取られている。それが先ほどまでの喧噪とすぐ隣り合わせにあることなどとても信じられない。
 そういえば、一昔前の日本でもにぎやかな商店街のすぐ裏に静かな路地があったなと思い出す。モロッコと日本はユーラシア大陸を挟んで東の端と西の端にあるけれども、ある一定の規模までの大きさの街というのは職と住が近くにありながら、お互いが干渉しないように上手く領域を分けているのだなと思う。それはまるで人の心の中に明るい部分と暗い部分、熱い部分と冷めた部分、公的な部分とプライベートな部分があるのとよく似ている。
 メディナの路地に入り、自分の気持ちのひだを探るように細い道を何度も折れて歩いていると、いつの間にか僕は落ち着きを取り戻していくのだ。コンクリートのビルが建ち並ぶ新市街は整然として小洒落ているけれどもどこを歩いても排ガスの臭いとよそよそしさばかりを感じさせる。だが、メディナにはあらゆるものを受け入れる多様性と寛容さがある。実はこの1ヶ月間、僕は結構精神的に浮き沈みが激しかった。そんな僕の気分を受け止めて、癒してくれた彼女(メディナは女性名詞なので)にはとても感謝している。

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