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「意味」の囚われと「無意味」の必要性と

なんも「意味」ないなと思いながら、スクロールする手は止まらない。

今日も今日とて、YouTubeに提案されるがまま、動画を見る深夜。もう寝た方がいいな、って分かってる。でもやめられない。あぁ意味のないことしてるな、と思い、疲れた頃に眠りにつく。

「意味」という言葉は、私のなかでは、仕事に結びつきがち。週末でも、あの仕事片付けとこうかな、来週あの資料提出しなきゃだから、ちょっと準備しておこう(んで、やらないことも多々)って、考える。

「意味」を「意義」と置き換えれば、有意義、生産的、そんなことを善しとし、そうじゃなかったら悪しとする。なんかこれやだなぁ、と思うのだ。

「意味」とは

“行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するにふさわしい、価値。”

あらためて「意味」の意味を調べてみた。「存在するにふさわしい価値」か。

私は、31歳、フリーランス。愛すべきルームメイトはいるけれど、特定のパートナーはいない。血のつながった家族、父と弟とは、離れて暮らしている。

いま生きていて、存在価値を感じやすいのは、なんだろう? 社会に出てからは、やはり仕事だ。学生の時は、学校。そこで期待されていることに対して、役に立ち、成果が目に見えたら、褒められ、評価される。これが自分の存在価値になる。

つまり、仕事や学校で、なるべく早く、大きく、成果を出し役に立つ=意味のあること

これが善でも悪でもないんだけれど、意味を求めすぎてしまうと、あんまり気持ちのいい結果にならないな、と思う。価値が発揮できないと、自分を責めたり、価値を発揮しようと必要以上にがんばったりして、生きにくさにつながるからだ。

過度に自分を追い込んでない?

最近、この生きづらさの根幹に触れるような本『「能力」の生きづらさをほぐす』(著:勅使川原 真衣さん)『冒険の書』(著:孫泰蔵さん)を立て続けに読んだ。

どちらも、日本の教育の行き過ぎた「能力主義(メリトクラシー)」に警笛を鳴らす。ざっくり能力主義とは、生まれではなく、社会で必要な能力(学生にとっては「学力」)があるかどうか、で、人々の進路や職業が決められること

一見、家柄や権威によって、人の価値が決まらない、誠実なもののように思える。一方「うまくいかない人には、能力や努力が足りない人」「能力をつけさえすれば、人生が成功する」という信仰を強化(能力以外にも、成功しない要因はあるのにね)し、常に私たちに、そこで期待される能力を身につけよう、努力しようと追い立てる。

学生だった頃でいえば、学力を付け、テストでいい点を取って、能力を身につけたと証明できれば、安心した。社会に出てからは、そんなに明確な証明はないのだけれど、外から期待されることを無意識に感じ取って「自分を追い立てる」ことからは、離れていないと思う

フリーランスになり、社会でいわゆる"王道"のキャリアを手放し、自分の心が喜ぶことを仕事にしている今でも、だ。意味のあることしかしたくない感情、意味のないことをしていると感じる時の罪悪感、が湧いてくるから。

これらの感情は、ちとしんどい。さらに、しんどいだけではなく、意味を追い求め過ぎている時の自分は、外の世界に目が向かなくなり、視野が極端に狭くなる傾向も感じる。

もしかしたら、その外の世界、いまは「無意味」と感じる世界に、なにか新しい可能性があるかもしれないのに。そして、そもそも、必ず意味を見出す必要もないのに。

「無意味」な時間

今度は、逆から。「無意味」に思いを巡らせてみる。

「無意味」といわれると、あちらこちらで語る、私が3年前に滞在し、今はそれをモデルにした学び舎をつくる、フォルケホイスコーレでの時間を思い出す。ざっくり説明👇

フォルケホイスコーレは、デンマーク発祥の、17歳半以上であれば誰でも行ける学び舎。成績や評価がなくて、さまざまな体験から、自分自身を探究できる学校。ともに学ぶ人々と寝食をともにしながら、対話を繰り返し、自分たちで学校のルールや授業の内容も決める。「民主主義の土壌」にもなっている学校。

2020年の冬、私はデンマークのフォルケにいた。その間は、その時の自分の興味と気分で、授業も、その日やることも決めていた。この時は、授業の内容がこの先の役に立つかとか、能力が身につくかとか、一切考えていなかった。

例えば、授業として、社交ダンスの授業を取った。そして、一回で授業をやめた(笑)セクシーな先生に見つめられながらダンスを踊ることが、自分にはハードルが高すぎた。

でもこれが良かった。だって、やってみないと、自分がこんなに社交ダンスに恥ずかしさを感じるなんて、知らなかったから。ある意味、自分の見方が広がった。

フォルケでは、社会における(ここでいう、社会とは、自分の所属するコミュニティ)自分の意味も無くなった。会社員を辞めて、部署名も無くなった。なんの役割も、成果も期待されていない。私は、ただの人間。

こうなると、隣にいる誰かと繋がる意味も、特になくなる。仕事で必要だからとか、あのプロジェクトを進めやすくするために、とかが無い。久しぶりに、ただ話したい人と、一緒に時間を過ごしたい人に声をかけ、友達を作っていった。どんな人と、どんな風につながりたいのか、まっさらに考えた。

フォルケホイスコーレの「無意味」の時間によって、自分のこと、自分の身の回りに、あらたな意味づけがされたんだな、と振り返って思う。

動画を見ている、自分に意味はあるのか?

書いてきて、いや「無意味」って言ってる、フォルケの時間にもしっかり意味づけしてるじゃん、と自分に突っ込む。

じゃあ、冒頭の冒頭に戻って、ひたすらYouTubeを見ている時間に意味はあるのか。私の好きな動画は、最近 話題の平野紫耀くんをはじめとするアイドルたちのダンス動画。数時間は余裕で見られる。

平野くんにハマったのは、この動画からだった… 今は、TOBEに移籍したけれど、ダンス動画がないから、ジャニーズ時代を掲載します

見すぎると、罪悪感がむくむくと湧いてくるのだけど、いま冷静に考えると、意味は、ちゃんとあると思う。よくワークショップを開催する時に参考にするNVC(非暴力コミュニケーション)の考え方によると、人は常に何かのニーズを満たしながら生きている。だから動画をだらだら見る、ということにも、なんらか私のニーズがある。必要だから、やっているのだ。

私は、休みたいのかもしれない。ただ動画を見ている間は、何をする必要もない、ただ受け身でいればいい。そんな何もしない休憩がしたかったのかも。かっこいいアイドルを見て、目の保養をしているのかも。がんばっている人を見て、やる気を出したかったのかも。人とのつながりを求めていたのかも。

いろいろ書いたけれど、自分にも、自分と同じような気持ちのみなさんにも、無駄だな、意味ないなと思う時間を過ごしたとしても、自分を心から責める必要はないんだよ、とただただ言いたい。

「無意味」が、生きるためには必要なのかも

『暇と退屈の倫理学』を代表とする、哲学者の國分功一郎先生が、一見必要のない「嗜好品」の必要性に訴えている記事を読んで、なんだか救われたので、こちらもシェアしておく。一部 引用👇

たまに十二分に食べたり、着飾ったりと、浪費の贅沢があってはじめて、人間は人間らしく生きることができる。(中略)生存に必要なわけではないけれど、生きていることの中に楽しみを導入するときに求められるものが、嗜好品だと思います。

人がストレスをやり過ごすために何かを必要とするということは、当たり前で自然なことです。そうした余裕がある生活を取り戻していきたいと思っています。

ちょっと話は逸れるけれど、昨日地元にある大きな本屋のレイアウト変更があって、新書コーナーがごっそり減っていた

私は、大きな本屋に行って、これを買おうと目的を決めずに、ふらふらと歩いて、その日ピンと来るものを買うのが大好きだ(これこそ、私の余暇)。Amazonの検索では引っかからない偶然の出会いが、自分の世界を広げてくれる。

だから、このレイアウト変更は、ものすごく悲しかった。多くの人にとって「すぐに」意味を理解できない、役立たない本が多かったのかな(=売れない)。

嗜好品も、難しい本も消えていくことも、すぐに社会に役立たない、といろんなものが消えるのか。なんだか社会に余裕が無さ、危うさを感じるなぁ。


このnoteに、意味があるのかはよく分からない。私のように「意味」に囚われすぎて、しんどくなる人の気持ちを、少しでも和らげるものであったらいいな、とは願うけれど。

ただ、私は書いてみたかった。だから、この文章を書いている。

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