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#映画感想文316『美と殺戮のすべて』

映画『美と殺戮のすべて(原題:All the Beauty and the Bloodshed)』を映画館で観てきた。

監督はローラ・ポイトラス、写真家ナン・ゴールディンのドキュメンタリー映画。

2022年製作、121分、アメリカ映画。

本作は写真家ナン・ゴールディンの人生とキャリア、社会運動を追ったものである。

わたしは恥ずかしながら、ナン・ゴールディンのことを知らなかったのだが、彼女の表現はまさに体当たりといった感じで、多くの写真家たちに影響を与えたのだろうと思われる。

彼女は被写体にオープンであることを求め、自らもオープンにして被写体にもなっている。神の視点ではなく、自らも映される側になることは、非常に潔いと思う。

彼女はアメリカ郊外の中産階級で育つ。しかし、姉が同性愛者であることを理由に施設に入れられ、自死に追い込まれている。ただ、時代が悪かったと単純に片付けられない背景がラストで明かされる。

この姉の存在と死が、ナン・ゴールディンを落ち込ませ、突き動かす何かになっていたことは確か。

彼女は学校からはドロップアウトしたものの、写真を覚え、表現活動を始めていく。彼女自身はバイセクシャルで、女性とも男性とも付き合っていく。「性に奔放」などという簡単な言葉で片付けられるものではなく、おそらく彼女と彼女の周囲にいる人々はひどく傷つきやすく、不安定な状況で暮らしており、人とのつながりを切実に求めていたのだろう、と思う。

だが、あるときの恋人の男性はそのことで彼女を疑い、暴力をふるう。なんと、彼女が写真家として仕事ができなくなるよう、目を狙って殴ったのだ。その暴力事件によって手術が行われ、入院した際、彼女はオピオイド系の鎮痛剤オキシコンチンを投与され、中毒となってしまう。

彼女自身は中毒を克服できたのだが、中毒に苦しみ50万人もの人々が亡くなったとも言われている。彼女は2017年に支援団体P.A.I.N.を創設して、オキシコンチンを製造する製薬会社パーデュー・ファーマ社とそのオーナーのサックラー家に販売中止を求め、遺族に対する補償を求めた運動を始めていく。

芸術家らしいパフォーマンスで、強欲な金持ちであるサックラー家を追いつめていくのは痛快であったが、彼女を含め、団体に所属している人々は、いち市民にすぎず、大企業と戦っていくときの怖さなども同時に描かれている。

サックラー家との戦いと同時に、ナンの家族の物語が最後に語られる。そこでは矯正施設に入れられていた姉のカルテが公開される。そこの担当医の記録はあまりに率直で驚く。「彼女は思春期のごく普通の女の子で、どこもおかしなところはない。入院しなければならないのは母親の方である」と記されていた。そう、姉の同性愛者であることに過剰反応した母親に問題があると当時の医師も指摘をしていたのだ。

アメリカのキリスト教保守の思想的な問題などではなく、母親は家庭内での性的虐待の被害者だった過去を持っていた。本当に治療が必要だったのは、母親の方だったのだ。おそらく、第二次性徴を迎えた娘が、母親のトラウマを呼び起こしてしまったのだろう。はからずも娘を攻撃してしまったのだと考えられる。妹のナンは、高校生ぐらいから、フリースクールのようなところで生活をして、親元を離れていたので、母親から逃げることができた。

そして、ナンは年老いた両親を眺めながら、「親になるべき人たちではなかった。子どもを育てる覚悟がなかった人たち」と結論付ける。この冷徹な視線を親に向けざるを得ない子どもが世の中にはたくさんいる。

本作を鑑賞して、わたしも欧米に住んでいたら、中毒死していたかもしれないと思う。わたしは痛みから逃れるために、鎮痛剤(イブプロフェン系)をビタミン剤のように飲んでいる。2錠で効かなければ、4錠、6錠と勝手に量を増やしてしまう。今のところ、それが原因で健康を害したことはないと思っているが、痛みから逃れたいという気持ちはよくわかる。癌に苦しむようになったら、モルヒネ(オピオイド)で痛みを緩和することになるのだし。

ナンの姉は施設に入れられ、コンラッド『闇の奥』から一節を引用したメモを残していた。孤独と絶望の中にいた彼女が読んだ本をきちんと読んでおきたいとも思った。

(サックラー家のオキシコンチン発売の際の「処方箋の嵐を!」というキャッチコピーには、心底、ぞっとした)



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