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#読書感想文 森達也(2017)『神さまってなに?』

森達也の『神さまってなに?』を読んだ。

わたしが読んだのは2017年に出版された文庫版で、単行本は2014年に河出書房新社より出されている。


1.著者の森達也氏について

森達也はドキュメンタリー映画の監督であり、2023年9月には福田村事件をモチーフにした映画の公開が控えている。

もちろん、森達也の代表作といえば、オウム真理教の内部に潜入した『A』と『A2』だろう。近頃は、配信作品にもなっているので、近いうちに観ておきたいと思っている。『FAKE』もとても面白かった。

2.わたしにとっての宗教

宗教や神話は、日常に入り込んでいるものの、なかなかきちんと勉強する機会がない。最も身近な神道と仏教でさえ、正直なところ、断片的なことしか知らない。

しかし、街に出れば、新興宗教の活動は活発である。政党のポスターはよく見かけるし、宗教団体の立派な施設はあちこちにある。突然、インターホンをならすのは、お馴染みのあの人たちである。口にしないだけで、多くの人が関わっているのだろうけれど、それはよく見えない。

某○明党のポスターをせっせと貼りつけているおじさんが、近所のスーパーの店長であったとき、わたしは見て見ぬふりをした。知り合いでもないのに、見てはいけないものを見てしまったような後ろめたい気持ちになったことを今でも覚えている。店長が大事な休日を使って、意気揚々とやっていたのか、しがらみゆえに仕方なくやっていたのか、実際のところは知りようがない。ただ、「信者」というのは、意外と身近なところにいる。

わたしは信仰を持っておらず、どこかの団体に属したこともない。神社のお賽銭が保守団体の日本会議などに流れているのだと耳にしてからは、お賽銭やお詣りなども一切やめてしまった。

3.神は存在するのか

とはいえ、わたしは無神論者ではない。神様はいるかもしれない、と思っている。それは著者の森達也と同じ立場である。

彼のすごいところは、常に即断即決はせず、曖昧さを許容しよう、という立場を貫いてるところにある。そう簡単にできることではない。わたしだけでなく、現代人は「保留」や「留保」をするのが、苦手になっているように思われる。しかし、世の中の物事は、すぐに結論を出せるほど単純なものではない。その複雑さに耐えるには体力、気力、知力が必要で、それを持っている、稀有な人なのだ。

オウム真理教の元幹部信者とやり取りをしてきた著者は彼らを「優しくて善良である(p.16)」と評している。そして、「彼らが善良で純粋であるからこそ、あれほどに悲惨でおぞましい事件が起きたのだ(p.16)」と述べている。そこから著者は、人間にとって宗教とは何かをかなりかみ砕いた平易な言葉で説明してくれる。なぜなら、この本はもともと中学生に向けに書かれているので、かなり読みやすい。入門書にはぴったりだと思う。

わたしたちは、どれほど豊かになっても、誰も死から逃れることはできない(p.18)。そう、大富豪だって、ホームレスだって、みんな死ぬ。生きる理由を探してしまう。生きるだけで大変だったりもする。

本書を読んで、宗教とは、人間の懊悩と煩悶に対処するための集合知で、処方箋的な役割を果たしているのかもしれないと思った。そして、神話とは、癇癪持ちで暴力的な神々が理不尽なことをするのだが、それは人間に「世の中はそもそも不条理でおっかない場所だ」と先回りして教えてくれるマニュアルとして読むべきなのかもしれないと思わされた。

著者は世界の三大宗教である仏教、キリスト教、イスラム教をシンプルにまとめてくれている。

4.仏教

第二章は仏教について。改めて、仏教を知るには、バラモン教、ヒンドゥー教といったインドの宗教やインドの土着文化を知っておかないと理解しにくいことがわかった。「バラモン教の最高神であると同時に宇宙の根本原理でもあるブラフマン(p.55)」なども、名詞として「ブラフマン」を耳にしたことはあったが、よくわかっていなかった。ブラフマンってすごい神様なのね。

そして、仏教において肝要な四諦。四諦を読めば、そもそも生きることは苦行であり、楽しいことなどないことがわかり、ちょっとほっとする。

一、苦諦
 生老病死や愛するものとのと別れ、求めても得られないことなど、人は生まれてから死ぬまで、さまざまな悩みや苦しみを体験する。つまり生きることは苦であることを知ること。
二、集諦
 そのさまざまな悩みや苦しみは、あらゆるものを果てしなく求め続ける心を持つことから生じていることを知ること。
三、滅諦
 この苦しみをもし(滅す)ことができるのなら、その境地はまさしく悟りであること。
四、道諦
 苦から逃れるのではなく、その苦の根源を知り、そして滅し、最終的には悟りに到達する方法が仏道であることを知ること。

森達也(2017)『神さまってなに?』p.56

悟りに到達する方法は八正道に書かれている(p.56-57)のだと言う。お金や財産を持つべきではないと主張したグループが上座部、南伝仏教と呼ばれ、現在のスリランカ、タイ、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、カンボジアなどで信仰されている。お金や財産を持つことを肯定したグループは大衆部で、大乗仏教、北伝仏教と呼ばれ、中国や朝鮮半島、日本に伝わっている仏教を指す(p.62)。東アジアと東南アジアの仏教の受容のされ方って何かが違うと感じていたが、そういうことだったのかと納得できた。

(おそらく、高校の世界史の授業で勉強したはずなのだが、実感が伴わない勉強ってすぐに忘れてしまうからもったいない)

5.キリスト教

第三章はキリスト教なのだが、まずはユダヤ教からスタートする。ユダヤ教の唯一絶対神、万物の造物主であるのがヤハウェ(別名がエホバ)、ヘブライ語で「わたしはある」という意味で、顔や体はないのだという(p.82-83)。

ユダヤ教の聖典が旧約聖書であり、創世記の第三章には、あの有名のアダムとエバ、二人をそそのかす蛇が出てくる。「エデンの園」からの追放が描かれている。二人はヤハウェから「園の中央にある(善悪を知る)木の実を食べてはいけない」と言われていたが、蛇にそそのかされて食べてしまう。すると、ヤハウェは激怒して、蛇には嫌われものとしての運命を、エバには男に支配される苦しみと出産の痛みを与え、アダムには食料を得るためのつらい労働を与え、さらに二人から永遠の命を奪ってエデンの園から追放したのだという(p.83)。

女性の人生がはじめから罰だと言っていることに驚いたし、昔の人のほうが、よほど率直だったのだなと思ってしまった。なんだ、最初から、わかってたんじゃんか。

ヤハウェは、守らなければならないことを与え、それを破れば厳しく罰する神様で、ノアの方舟、ソドムとゴモラ、バベルの塔などで何人死んでも気にしない。この罰を与える神は、イスラム教ではアッラーフ(アッラー)と呼ばれ、同一の神なのだという(p.86-87)。

そんな厳しいユダヤ教を人々が信仰しているときに登場したのが、イエス・キリストで、今も、キリスト教は隆盛を誇っている。イエスはヤハウェと違って優しい(p.87)のが特徴だ。

そして、わたしたちがよく目にするキリストの言葉は「マタイによる福音書」の五章から七章にかけて書かれている(p.101)のだと言う。右の頬を打たれたら左の頬を出せとかいったものである。

ユダの裏切りによってイエスが処刑されようとしているとき、弟子のペテロはイエスを知らない、関係がないと言って、逃げようとする(p.105)。

これが多くの小説や映画で引用されているのだと思われる。

6.イスラム教

第四章はイスラム教。ムハンマドが四十歳とのき、洞窟で瞑想していると、ジブリールという天使が現れ、啓示を与える。で、このジブリールはガブリエルとも呼ばれ、イエスの誕生をマリアに告げた天使と同一人物なのだという(p.124-125)。それに加え、イスラム教は神がこの世に遣わした預言者として五人の名前をあげる。ノアとアブラハム、モーセ、イエス、そしてムハンマド(p.144)。最初の三人は旧約聖書にも登場する。このことからも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は共通の基盤があるのだとわかる。

7.まとめ

異文化を知るためには、やはり、そのエッセンスが詰め込まれている宗教を学ばないと深いところまでは理解できないと思う。わたしは信仰を持つことはないと思うが、自文化を知るためにも、バラモン教やヒンズー教、仏教の本を少しずつでも読んでいきたい。ユダヤ教についても、もっと知りたいと思っている。


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