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第10週 木曜日作家 小式部内侍

10人目も百人一首の女流歌人小式部内侍です。


小式部内侍(こしきぶ の ないし)は長保元年(999年)頃生まれたと考えられています。お父さんは橘道貞、お母さんは和泉式部です。

お母さんの和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕されました。

そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになりました。

お母さんの和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の因幡国湖山へと戻っていました

和泉式部は安産祈願の為、現在の鳥取市鹿野町鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされています。

住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っているそうです。

母同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの高貴な男性との交際で知られています。

教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。

万寿2年、(1025年)11月藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせました。


その際母の和泉式部が詠んだ歌は

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり
— 『後拾遺和歌集』哀傷


この歌は哀傷歌の傑作として有名だそうです。

小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られています。

また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されているそうです

小式部内侍の歌

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
— 小倉百人一首

この歌は『金葉和歌集』にも収録されているが、そちらは「ふみもまだ見ず」となっており、百人一首とは語順が異なるそうです


当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言(藤原定頼)は歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などとからかったのだ

そうですが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだそうです。

意味としては「大江山(大枝山)を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、大江山に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価されました


四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったそうです。


百人一首には、札以外に本や覚えるための関連グッズがいくつかあるようなのでここで紹介しておきます。




めぐめぐがすごいと思う小式部内侍のこと

1 歌人の娘として若い時からその才能を早い時期から開花されたこと。

2素晴らしい歌を詠んでお母さん以上の歌を残されていること。

3早く亡くなられてしまったけれども、その短い生涯もあり素晴らしい女性として多くの書物に載っていること。


ちなみに小式部内侍のことはお母さんの日記から読むことが出来ます。



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