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ハイぺリオンスタジオ|幻のディズニーアニメーション製作現場に迫る

昨年で100周年を迎えたディズニーアニメーション。
100年経っても愛される作品とキャラクターを生み出す為には多くのスタッフとアニメーション技術の向上なしではできません。
果たしてディズニーは世間を驚かすほどのアニメーションを作るに至るまで、どれだけのスタッフを雇って教育して、どうやって製作をしていたのでしょうか。

ウォルト・ディズニー・カンパニーは事業開始から現在までに二回大規模なスタジオの引越しをしています。
創立当初1924年にカリフォルニアのキングスウェル通りの小さな店舗で事務所を設立。
1926年にロサンゼルスの中心から数キロ離れたハイぺリオンスタジオに移転。
1938年にブエナビスタ通りバーバンクスタジオに移転しています。

バーバンクスタジオでは現在もそのスタジオでスタッフが働いています。
「ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-」でもお馴染みで有名ですし過去に何度もメディア取材も行っています。

しかしその前のハイぺリオンスタジオはとうの昔になくなっています。
現在その場所はスーパーマーケットになっていて、元の建物はバーバンクに移転したときに放棄されてしまいました。
世界で誰もハイペリオンスタジオの見学ができていない状態なのです。
バーバンクスタジオにあるスタジオ・ハイペリオンルームで当時の製作現場の雰囲気を少し味わえるみたいですが、より詳しい作業現場の様子を知るにはまずウォルトディズニーの伝記を読むことをお勧めします。

当記事は短編アニメーションを製作しアニメーションの基盤を築いたハイぺリオンスタジオ時代(1928〜34年まで)の技術スタッフの雇用と人材育成、アニメーション製作活動方法を上記の伝記を読んでまとめました。



【雇用】ミッキー・マウスに刺激を受けた多くの熱心なアーティスト達が集結

1928年11月28日「蒸気船ウィリー」公開から、短編ミッキーマウスがアメリカで大ヒットしました。
ミッキーマウスの人気を受けて、当時のNYのベテランアニメーターや、大学や美術学校に通っていたアーティスト達が続々とディズニースタジオにやってきたのです。

ミッキー製作時1928年頃はディズニーのスタッフはわずか6名だったのが、1934年には187名に増えました。
1934年にディズニースタジオで働いていたのはストーリーマンとギャグマンが12名、アニメーターが40名、アニメーターの助手が45名、トレースと色彩係が30名、楽団員が24名、それにカメラの操作員、電気工、音響担当、その他の技術スタッフが数人ずつでした。

スタッフの増加に伴って、スタジオの改築工事もしていました。
周囲の土地を買い1930年にはさらに新しいオフィスがいくつかでき、翌年には二階建てのアニメーションビルとサウンドステージも誕生しました。


【稼働】6階層のアニメーション製作方法

「蒸気船ウィリー」以来、数年のうちにアニメーション製作活動のやり方には以下のように一つの型ができていました。

《監督》
トップはウォルト・ディズニー。
仕事の全過程を監督していました。

《ディレクター》
製作のまとめ役です。
登場人物とアクションに関するウォルトの指示を実行させます。

《ストーリー部》
ギャグを考えます。
当初のアニメーションはウォルトも共同して考えていました。

《アニメーター》
ストーリー部が考えたストーリーを絵に表して漫画を描きます。
キー、ポーズ、アクションのふしとなる絵をそれぞれ考えて描きます。
フェルト張りの板、ストーリーボードにスケッチを止めていって、アクションの展開をウォルトとストーリー部に見せて確認してもらう作業も行いました。

《アニメーターの助手、中割り》
アニメーターが描いた絵を何枚も描きます。
ウォルトがアニメーションのアクションをチェックしやすくする為、アニメーターが描いた絵を写真に撮り、ポジフィルムに焼き付けて回転ドラムの上で乾燥させ、十分な数だけ絵が揃ったらフィルムを繋いで輪にしてウォルトに観せます。

《色彩部》
インクで原画をセルロイド板に写し取り、色を塗ります。
女性スタッフが担当していました。


【育成】シュイナード美術学院授業など充実したスタッフの研修

1931年にウォルト・ディズニーはロサンゼルスにあるシュイナード美術学院と提携し、スタッフを学院の夜間授業を受けさせていました。

1932年には配給会社が新たに変わって契約したことにより、スタジオに多額の資金が入ってくるようになりました。
そこでウォルトはスタジオ内に美術教室を設置し、学院の教員を講師として招いて週二回の夜間クラスをスタッフに受けたのです。
その夜間クラスは昼間にも拡大され、昼間は週三日、夜間は週二日からやがて五日に行われるようになりました。

学院の授業ではアニメーションの技法、キャラクターの描き方、レイアウト背景画法などの指導が行われました。
また学院の授業以外に、学院教授とウォルトで新人アニメーターのペンシル・スケッチ写真の検討をしたり、週に二度アーティストを動物園に連れて行き動物を写生させていました。


配給会社との好条件な契約と充分なスタッフ教育への投資が会社の未来に繋がった

1932年にディズニーアニメーションを配給することになった会社はユナイテッド・アーティスツ社。

この会社は1919年に俳優のチャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグランス・フェアバンクス、D・W・グリフィスによって設立された会社です。

ユナイテッド社と契約する前、ウォルトはコロムビア映画社との契約条件に不満で困っていました。
そのことがロイとウォルトの知り合いだったプロデューサーを通じて、ユナイテッド社の社長に知れ渡ったのです。
交渉の話の連絡をしてきたのがユナイテッド社側で、取引条件も良かった為ウォルトは配給会社先をユナイテッド社に決めたのでした。

そして何よりもスタッフの技術向上の為にお金と時間を充分にかけたことです。
スタッフに美術学院の授業を受けさせる為に、ウォルト自身が車で送迎をしていました。
アニメーターの作業場での新人スケッチのチェックや、アーティストの動物園の誘導。
社長の支えがあったからこそ、スタッフの腕が上がってクオリティが高いアニメーション作品が完成できたのです。


■引用元


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