MEGUMI ITO

エッセイを見せる。芸術家でいることや子育て、人との繋がりを私の世界観で伝えられたら嬉し…

MEGUMI ITO

エッセイを見せる。芸術家でいることや子育て、人との繋がりを私の世界観で伝えられたら嬉しい。www.ito-megumi.com ドイツ生まれ、スイスと鎌倉で育ち、パリ在住。オーストリア国立応用美術大学に留学後、照明アーティスト。ウィーン、パリ、東京、インターナショナルに活躍する。

最近の記事

    • ザッハーの作品

       2017年に仕上がったシャンデリアは、5メートルもあって二階から一階までを突き抜けて吊られている。五千個のクリスタルは全て私が一つずつ付けた。過酷な作業もあり大変だったが、満足いくものをデリバーできた。  最終日には百を超える作業者から一気に少数になり、最後の仕上げに没頭した。私は凍えるお店の中で朝方まで作業に掛かった。そして少し休憩し、十一時オープンのギリギリまで梯子に乗り最終チェックをした。  (いつも最後まで梯子に乗っているのは私で、それを知っているチームは私を降ろ

      • 叫美 2

         先週からずっと風邪を引いて少し気が弱くなっている。 そんな時はどうしようもなく、ただただ疲れた体を癒すだけ。 観たいと思っていた映画にとことん没頭して、待つだけ。  今日から少しずつ外に出てみようと思う。掃除をして、買い物に出かけた後は、大分直ったのを感じて少し安心する。  人は何故生きているのだろうか、とか、いろいろと考えた。きっとこんな時間もある。  これからどうしようかと悩み、考えた。私の道はこれで合っているのか考えた。まるで思春期の頃に考えたのと同じ。私は成長

        • ドイツ語

           ドイツ語はリズムがありはっきりしている。誤魔化したり曖昧な感覚は少なく、とにかくストレート。それもそれで良い気がしている。 Es geht sich nicht aus という表現がある。これは「どうにもならない、終わってる、お手上げ」という感じ。大袈裟な時も軽い時も、とにかく何かが叶わない時に使う。  留学した当時、毎月送るように言われていた父への手紙を郵便局に出しに行った時、お釣りを乱暴に、しかも投げるように渡されびっくりした。その時に、肩を窄めながらEs geht

          ヴェニス

           ヴェニスに来ている。中世紀から栄える水の都はいつも神秘的だ。  最初に来たのは私がまだスイスに住んでいた頃で、丁度カーニバルのお祭りの日だった。私は双子の片割れと随分怖い目に遭ったのを覚えている。  ある時息子と片割れがたまたま夢の話をして、私と片割れは熱を出すと同じ夢を見るのを知った。その夢は、お婆さんが暗い長い螺旋階段をどんどん上に登っていく夢。私はそのお婆さんを追いかけて、追いかけても消えてしまう、そんな悪夢だった。ヴェニスには高い塔も螺旋階段もある。カーニバルの

          ヴェニス

          プラハ

           チェコから日本に届くはずの物が届いていなくて、大変なことになってきた。その事で緊急会議が設けられた。もちろん私が頼んでいる業者だから私の責任でもある。  こちらの厄介な点は、何と言っても仕事なのにまるで他人事。敢えて言うと東欧のメンタリティは未だ古風で、男尊女卑?社会主義の名残りみたいなのがあっていろいろなコンプレックスがある。  少し前、パリのプロジェクトで同じ業者にガラスを頼んで、請求書がうまく届かなくて支払いに時間がかかってしまった事があった。彼女は今だ!と言わんば

          叫美 (さけび)

           自由とは選択肢があるということ。権力や他人の価値に捉われない、みんなが誰をも尊重しあいながら生きる、各々が自分の責任を持てること。  こんな風に人類が発展してたら、今頃どんなに素晴らしい文明革命が起きていたことだろう。だって、戦争に武器を売買する情け無い人達がいるから。そのお金もエネルギーも本当はイノベーションに必要なのに。もし、もう既にプラン済みの世の中なら、これからどうする気だろう。  私達にはそれを変えられる事ができるのだろうか。  全世界を救うには、簡単に実行

          叫美 (さけび)

          私の歩く道

           私は物作りで生活を営んでいる。いつも厄介なのは値段をつける作業。用意する物と私の労働時間とアイデア料を足せばいいだけだが、自分の魂までくっ付いていくから案外難しい。まるで人前で裸になり、私はいくらですか?ってきくようなもの。いっその事物々交換が良い。もしくは誰かが勝手に決めてくれてもいい。でも誰が決める? 無闇な値段も納得できないし。  普段は希望価格を伝えれば納得してくれることが多いが、たまに値切ってくる人がいる。そんな時は何だか虚しくなり自己価値が低くなるのを観る。と

          私の歩く道

          ピクニック

           今日は日曜日、お昼近くまでベッドの中でゴロゴロして過ごした。  そろそろ起きなきゃ。台所には昨日から下水が詰まってるせいで洗ってない食器が幾つか残っているけど、ほぼほぼ肩付いている家に居るのは気持ち良い。  昨日までオランダから息子が遊びに来てたから、家の中がごっちゃごちゃになっていた。私も時々一時帰国をした時に、母に私が来ると家がはちゃめちゃになるって言われたのを思い出す。数日間、私に甘えるだけ甘えさせて返したい。去年から通い始めた芸大に行く息子は、やっと好きなことが

          ピクニック

          父の詫び状

           何十年も前に父の詫び状を読んで深く感動した。いつか私も父に何かを伝えられる時がきたら書きたいと思っていた。  父は普通の人とは大分違う変わった人だった。まだ生きてるけど、笑。母とは正反対で世間体なんていう言葉は彼にはない。本が大好きで何百冊と家にある。この前出版されたパンテオンの本は四百ページ以上もあり、出版社はページ数を減らすよう父に頼んだが、聞かない。  父は愛犬と義母を連れヨーロッパ中を旅し、ローマのパンテオンの調査を何年もかけてした。ある時はイタリア語、ラテン語、

          父の詫び状

          怒るのをやめたら

           昔、私はよくガミガミしてた。特に息子に。「教育」とかの理由で。自分がイライラしているのを忘れて、そのイライラを周りに押し付けてた。  可哀想に息子はまだ小学生で抵抗する事も出来ないので、別れた夫の家によく行っていた。  言い訳をするなら、当時は経済的に窮屈で、これからどうして良いかも分からない程、困惑状態だった。相談する人もいなかったから死ぬほど苦しかった。  私にはその時好きな人がいた。その人に息子がどうやら言ったらしい。ママが怖いって。それを聞いた彼は私に真剣に考

          怒るのをやめたら

             夢を叶える

           ウィーンに長いこと住んでいた間に、賑やかな友達がたくさんできた。私は叶うのなら素敵なクールな人たちの仲間入りしたいと思っていた。不思議とそんな人達から誘われる機会が増え、段々とその仲間に染まっていった。  私は自分のスタイルに気を使い、格好良く着こなし目立ったせいか、いろんなところから声がかかった。ウィーンではおしゃれな人が少ないし、ましてや私が日本人女子だから、ちょっと高く評価されたのもあると思う。   私の「未来の世界」が始まったのもその頃からだった。それまでは人に

             夢を叶える

          大好きな葉子ちゃん

           中学が同じだった。当時、私にファンレターを書いてくれたらしい葉子ちゃんは、双子の片割れと結婚している。なので、彼女は私の義理姉。とにかく不思議な出会いで、最近では週一間隔で電話する仲。  色々ある話の中でもとっておきの、とにかく面白すぎてどう説明したら良いか分からないが、このエピソードを紹介する。  葉子ちゃんは大学病院の看護師。とても頑張り屋さんで、誰よりも患者や同僚たちに「幸せ」を振り撒いている。少し抜けている謂わゆる天然さん。その辺も私に似ているので、私達はすっかり

          大好きな葉子ちゃん

          光のポエトリー

           私は自分でプリントした生地でランプを作り始めた。それがきっかけでギャラリーで個展をする事が決まり、今では公の場所やプライベートの家にも照明を作っている。ここまで来るのに二十六年。  よく私に助言をしてくる人達がいて、失礼な事を平気で言ってくる人もたまにいるが、つい最近、尊敬するあの人からヅキッとすることを言われた。 「君の作品はアートで、光のポエトリーそのものだ」って。  私達はこの宇宙という完璧な空間にいる。超自然に当たり前に存在して、五感を満たし、知識を身につけ、

          光のポエトリー

          Aちゃん

           日本に仕事で帰ってた時、Aちゃんと20年ぶりに再会した。  彼女は近所に住む幼馴染で、小さい頃から途轍もなくオーセンティックな女の子だった。どうしたらあんな風になれるのか、幼いながらも羨ましくて仕方がなかった。  昭和時代の私の親はとにかく世間体を気にするタイプで、私に「必要以上」を求め、私のやる事なす事全てにおいて、口出しては極度に怒ったり、母の思い通りになると異常に褒めたりしてきた。心理学的に言えば、精神の成長には随分影響があったと思う。  そうこうしているうちに、

          差別じゃなくて。

           夜ご飯を食べに来た男の子達はまだ高校生だった。  息子が一人っ子だったせいか、我が家はいつも彼の友達で賑やかだった。週末になるとみんなで集まって出掛け、帰ってきたのはいつも真夜中。キッチンにあるコーンフレークがガサガサ鳴る音、冷蔵庫のドアの開け閉めする音、あとはみんなの小声が聞こえてた。そんな事が毎週末あったのは他の親は知らないと思う。私は朝起きるとお手洗いのついでに靴の数を数えた。それはスリルな数年だった。人生が何処に向かってるのかなんて全く未知で、トンネルの中をとにか

          差別じゃなくて。