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学校は社会に出るための練習なのだろうか?

本当に?

でも学校と社会ってめっちゃ違うよね。


自分は学校で苦労した経験が今に生きている

と言う人がいる。


不登校系の話題になると、必ずと言っていいほど こういう事を言う人がいる。

その後に続く言葉は
『だから学校には行くべき』

だいたいこうだ。


それは『私も頑張ったんだからお前も頑張れよ』っていう、理論として成り立たない事だと私は思っている。


その人はそれが良かった。
それは認めよう。


良かったね。
よく頑張ったね。

それで良いと思うのだけど、『だから』を付けられると まるで\認めて/と言われているような気さえしてくる。


何で不登校側がその人の過去の頑張りを認めてあげないといけないんだろう。

百歩譲って こちらがその人の頑張りを認めてあげたとして、でもその事と学校の意義とは切り離して考えないといけない。


それは、自分以外の一人一人の状況見たの?っていう事だし、何をわかった上でそんな無責任な事を言っているのだろうとも感じる。

不登校が何人いると思ってるんだろう。
今29万人だよ、知ってた?(2023年発表)

せめて『私の場合は』と付けてくれたらいいのに。


学校で求められる能力は、社会のそれよりも複雑だ。


社会に出たら(仕事にもよるけど)もっと専門性が出る。
っていうか、専門性がないと仕事にならない。


学生時代に楽しかった、もしくは逆に耐えぬいてしまった人は学生気分が抜けにくいのではないか。(これは私の仮説)


いつまでも学生気分の人やメディアの刷り込みが強い人は、社会でも複雑を求める。

マルチな能力を持つ人材でなければならないような風潮が、いまだにある。


でも価値観も得意不得意も目的も、本来は人それぞれ。

それに気付かない人は、先に書いたような事を平気で言う。


その人はそれでいいし、複雑さを乗り越えて学びに変える力があったという事は素晴らしいと思う。

でもそれを押し付けるのは違う。

少なくとも今の学校では適材適所を教えてくれない。

それではまた。




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