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スピリチュアルについて思うことつれづれ、の話

この世界はいくつものパラレルが、薄いレイヤーのようにたくさん重なって出来ている、というのが、最近の私が持つ世界観です。

この瞬間瞬間に世界は分岐していて、、、というか、世界はもともと無限に分岐したものが既に用意されていて、それを感知する「魂」が、積層されたレイヤーの間を行き来している、というイメージです。

パラレルもたくさんのバージョンがありますが、類似しているレイヤーが重なった所はより鮮明な世界となり、魂もそれを目印にして進んで行ったりします。

類似のレイヤーが多く重なる、というのは人類の集合意識ということです。

積層したレイヤーの断面を真横から見たとき、ある世界のレイヤーはすでに人類が滅亡しています。しかし同じ時間軸の別のレイヤーでは、地球上から戦争がなくなっているという世界も存在します。

その中のどのレイヤーを魂が感知しているかという状態により、私たちが「生きる世界」が決定されているという、、、分かりにくい説です。

高次元とかよく聞きますが、それはより理想的なレイヤーを魂が感知する、といった意味合いがあるのかな、と個人的に思っています。


仏教では、こんな教えがあります。

ガンジス河の流れを見て、地獄に住まう者は「燃え盛る業火の流れだ」と言います。
しかし同じガンジス河を見て、天に住まう者は「甘露な蜜の流れだ」と言います。

同じものを見た時、それを感じる心の状態によって見え方や感じ方が違ってくるということを、天と地獄とにたとえている説話です。

あるいは、こんな教えも。

天国も地獄も、豪華な食事が毎日提供されます。
しかし、それを食べるためには、自分の腕の長さの倍ほどの長い箸を使わなくてはいけないというルールがあります。

地獄の住人は、豪華な食事を前にして、長い箸では自分の口に運ぶことができず、いつまでも空腹のまま苦戦しつづけます。

一方の天国の住人は、同じ長い箸を使い、料理をとり、他人に食べさせています。
みんなそうやって、長い箸で食べさせ合うので、みんなお腹も心も満たされるという話です。


私はこの、長い箸で他人に食べさせるという話が好きです。

スピリチュアルをかじると、「好きなことをやろう」とか、「自分軸で生きよう」という声を聞くことがあります。
しかし、それって捉え方を間違えると、長い箸を自分のために使おうとし、地獄の住人になるおそれがあるような気がします。

例えば、「ありがとう」を唱えると幸せになる、というのをやっている人についても、長い箸論を感じてしまいます。

その「ありがとう」は、本当に周りの人に向いてますか?って言いたくなるのです。
最終的には自分の利益のことしか考えてないよね?と思いたくなるような、浅はかでいやらしい「ありがとう」を何度も聞いたことがあります。

地獄とは、決して過酷な環境のことをいうのではなく、自分の損得の事しか考えられなくなった人の心をあらわすものだと思うんです。
苦しみや悩みの渦中にあるとき、そこから抜け出したいともがいているときなんかは、自分のことしか考えられなくなると思います。
それで周りが見えなくなって、ガンジス河の流れも炎に見えちゃう。

見るもの聞くもの、全てが自分を苦しめてくる。
だから地獄。
でもそれは、あなたの魂が、「苦しんでいる自分」を選んで宿っているに過ぎません。

魂が感知するレイヤーを変えることができれば、同じ時間軸に「地獄じゃない自分も必ず存在している」のに気づきます。

そして、どんなに苦しい状況でも、あなたの手には長い箸が握られています。
それを自分のためにふりかざすのではなく、人に与えるものとして認識できたとき、魂のレイヤー移動、いわゆる「アセンション」が起こるんじゃないでしょうかね。

たまには哲学的なことも言う、研究太郎でございます。

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