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身も心も常に傷だらけになりながら、才能で世界を魅了した歌手

12月19日は、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが生まれた日。

フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。生涯に280ものレコーディング曲を残し、とりわけ「バラ色の人生」と「愛の讃歌」は世界的なヒットとなった。(1915年12月19日 - 1963年10月10日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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1915年大道芸人の父と路上の歌手を母に、パリの下町で生まれる。まだ20歳だった母は、実家に赤ん坊を置いて立ち去った。そのためエディットは「母に捨てられた」という思いを抱いて育った。

母方の祖母は、ろくに赤ん坊の面倒をみず、兵役から戻った父は、自分の実家に預け直した。父方の祖母は娼家を営んでおり、エディットは気のいい娼婦たちに可愛がられて育った。7歳になると、父に連れられて、場末の町から町を歌って歩いた。

大道芸人の父が倒れた時に、まだ9歳でありながらフランス国家「ラ・マルセイエーズ」を歌い、拍手喝采を浴びたのが歌手としての出発地点だった。

18歳のとき、ルイ・ルプレに見いだされて、モーム・ピアフの名でデビュー。たちまち大スターとなった。

マルセル・セルダンとの恋、そしてアルコール中毒や麻薬中毒など病気に蝕まれた晩年。

”私は恐ろしい人生を送ってきました。それは事実です。でも、素晴らしい人生でもありました。
…私は人生を、何よりも先ず、人生というものを愛してきたからです。
人間を、男たちを、愛人たちを、友人たちを。
さらに、名前も知らない人々、ファンになってくれた数多くの男性や女性を愛しました。
彼らのために、私は力の限りを尽くして歌い続けてきたのです。
最後の歌い終えた舞台で死にたい…
いつもそう願っているのは、彼らのためなのです”

エディットが亡くなった時、埋葬されたバリのペール・ラシェーズ墓地には約4万の人々が哀悼のために集まったという。

カトリック教会が、彼女の生き方がキリストの教えに反するという理由で、ミサを拒んだにもかかわらず。

また、パリの商店街は一斉にクローズし、喪に服したという。


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