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もう一つのフランス革命ー女性の権利を訴え、処刑された女優ー

5月7日は、フランス革命時の劇作家、女優だったオランプ・ド・グージュが生まれた日。(1748年5月7日 - 1793年11月3日)フェミニズム運動の世界的な先駆者である。本名はマリー・グーズで、オランプ・ド・グージュはペンネーム。

フランス革命においてはすべての女権論者は過激論者と見なされた。が、オランプは、イギリス的立憲君主主義者であったと見なされている。早くから黒人奴隷制度について反対の立場を取り、フランス革命における女性の権利の不在を糾弾し、共和主義者に近い立場を取りつつもルイ16世の処刑に反対した。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

生い立ち

フランス南西部タルヌ=エ=ガロンヌ県出身。

侯爵ルフラン・ド・ポンピニャンと装身具の行商人の母アンヌ・オランフ・ムイセとの間に生まれる。庶子だったとされている。生まれたときの父は、肉屋のピエール・グーズ 。

結婚

17歳でモントバーンの行政監督官の料理人オーブリと結婚、ほどなく息子をもうけたが、夫には先立たれた。

パリへ

彼女は、父が貴族であることなどから上流階級へ強い憧れを抱いていた。そして夫の姓を名乗るのを嫌って母の名とグーズ、そして夫の仕えていたグールグの名前を混ぜ合わせて、オランプ・ド・グージュと名乗り、パリへ移住した。

パリへ行くとオランプは上流社会へ入るため、ブルジョア商人の愛人となることを選んだ。貴族の女性たちが開くサロンに行き、ジャック・ピエール・ブリッソーやニコラ・ド・コンドルセといった政治家や作家、フリーメイソンのメンバーなどと交流した。

文筆業への転向

その美貌から、何人もの男たちと暮らし、資金的援助を得ていた。彼女は1788年には8万リーブルの財を成したが、年齢的な限界を感じると、文筆活動へと転向した。オランプは教育を受けていないため、文字が書けなかった。そのため執筆は全て口述筆記によるものであったが、分野は戯曲、小説、政治的パンフレットと多岐に渡り、非常に多才であった。黒人奴隷制度を扱った1788年の『ザモールとミルザ』は、何度も検閲や上演妨害が行なわれた。

女権運動家として

フランス革命勃発後は、オランダで始まった女権運動に刺激を受けて、フランスでも女権運動を開始して、女性新聞を創刊し、愛国募金運動、 女性のための第二国営劇場の建設などを計画した。

そしてフランス語では人間を意味する言葉は同時に男性を意味するため(仏 : homme)、『人間と市民の権利の宣言(人権宣言)』の中の「人間」には女性が含まれていないと考えて抗議運動を始める。

1791年憲法では実際に女性の権利は無視されていたことから、9月14日(9月5日)に自ら17条から成る『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言、英 : Declaration of the Rights of Woman and of the Female Citizen)』を書いて発表した。オランプは積極的に演説活動を行い、記事を書き、愛国を謳った劇も書いた。彼女は公然とロベスピエールやマラーを批判しジロンド派を支持し、急進派の山岳派ながら"寛容派"のダントンを賞賛した。

オランプはルイ16世の裁判に先立ち、元国王の弁護をしたいと国民公会に申し出たことによりのちに王党派とみなされ、反革命の容疑で逮捕された。

共和制、連邦制、立憲君主制のどの政権を選ぶか住民投票にすべきと呼び掛ける本を著したことによって反革命的と判断された。

11月3日に裁判が行われたが弁護士が出席せず、代わりの弁護士を付けることを願い出たが却下され、オランプ自身が自身の弁護を行った。扇動的な態度や王政復古を企てたとして有罪の判決が下り、同日午後4時に処刑された。

死後

2003年、オランプを記念して、パリ3区に「オランプ・ド・グージュ広場」が作られた。

ギャラリー・イグレックの日記帳 – 3より「オランプ・ド・グージュ広場」

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