12人のイケメン寵臣を囲った女帝中の女帝
5月2日は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝、エカチェリーナ2世(1729年5月2日 - 1796年11月6日)が生まれた日。
在位は1762年7月9日- 1796年11月17日。夫は第7代皇帝ピョートル3世、後にグリゴリー・ポチョムキンと秘密結婚。子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。
プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝と称される。
生い立ち
神聖ローマ帝国領内の一君主の娘だった彼女は、キリスト教ルター派の洗礼を受け、2歳の時からフランス人ユグノーの家庭教師に育てられ、その結果、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。乗馬も達者だったが、音楽は苦手。美貌と言えるほどの器量の持ち主ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。
結婚
縁あってロシア皇太子ピョートルと結婚した。ロシア正教に改宗し、ロシア語の勉強に熱中したあまり高熱を発して倒れてしまい、姑のエリザヴェータ女帝やロシア国民の心を動かしたという逸話もある。が、ピョートルとは、性格が合わず、夫婦関係は最初から破綻していた。
皇帝即位後も、ロシア語を話さず、自身の出身国であったプロイセン流に物事をすすめ、ロシア正教会や貴族と対立ばかり起こしていたピョートルは、ついに近衛軍のクーデターで、捕らえられ、幽閉、暗殺された。その時、エカチェリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったと伝えられ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。ピョートル3世側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
啓蒙専制君主として
「私の仕事は専制君主であること。そして神様の仕事は、そんな私を許すこと」。エカチェリーナ2世は、こんな言葉が残っているほど女帝としての意識が高く、ロシアの近代化のためのリーダーシップを発揮していった。西欧諸国の近代化を範とし、ヴォルテール、ディドロなどとも文通を行い、絵画・音楽・文学の発展を促しつつ、自由経済の促進や宗教的寛容、教育施設の充実などに力を注いだ。特に絵画のコレクションは、今日のエルミタージュ美術館の基礎となり、教育では女性のための学校・スモーリヌィ女学院を設立し、社交界にデビューできる貴婦人養成を生み出していく。
その間、次から次へと愛人を作り、彼らに寵臣としての仕事を与え、自身もバリバリと皇帝としての仕事をこなしていった。
女帝の最後
1796年11月16日の朝、エカチェリーナは脳梗塞で倒れ、崩御。サンクト・ペテルブルクの首座使徒ペトル・パウェル大聖堂に埋葬されている。
遺言
「遺体には白いドレスを着せ、洗礼名を彫った黄金の王冠を頭に載せること。喪服を着るのは6か月を超えないこと。短い方がのぞましい。」と、いかにも合理的だった彼女らしい遺言だった。
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