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18世紀 イギリスの女性解放運動の先駆者

4月27日は、18世紀イギリスの作家、メアリ・ウルストンクラフトが生まれた日。(1759年4月27日 - 1797年9月10日)

当時、女性は男性よりも脳が小さく、その為男性よりも全てにおいて劣っているという考え方が主流の時代に、著書『女性の権利の擁護』で、男女の同権、教育の機会均等等を提唱し、女性なる存在のありようについて考察した、フェミニズムの先駆者。

小説『フランケンシュタイン』で有名になったメアリ・シェリー は、実の娘。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

【生い立ち】

ロンドンで、イングランド系アイルランド人の家庭に、六人の子供の第二子として誕生。父エドワードは、家父長的な人物で、母エリザベスや家族に対し暴力をふるい、威圧的な態度で接する。エドワードは親から相当な財産を相続するも、事業に失敗し、住まいを転々とする。

19歳でメアリは自活するため家を出る。母エリザベスは病気で死亡。メアリは重病の姉妹イライザを看護し、家庭内暴力を振るう夫から助け、離婚が成立するまで匿う。

【執筆活動の開始】

1787年、『少女の教育についての論考』(Thoughts on the Education of Daughters)という162頁のパンフレットを執筆する。この著作はメアリにヒットし、彼女は文筆で身を立てることを決意。

1787年、メアリはロンドンに移り、作家として生計を立てる決意をし、多数の小編、翻訳、抄訳等を執筆する。

1788年に創刊された雑誌『分析的書評』(Analytical Review) において、メアリは雑誌の常連投稿者となり、価値観の合う知識人たちと交流を始める。

当時のメアリは、父をはじめとした姉妹兄弟ばかりでなく友人の遺児までもの面倒を見、仕事を全力でこなしていく。

【フランス革命と女性の権利】

フランス革命に強い関心を寄せたメアリは、第一共和政が開始されたパリに渡って革命運動に加わり、マノン=ロランのサロンなどに参加して自由と平等の理念を吸収していった。

1792年、『女性の権利の擁護』を執筆出版した。

【メアリの愛と結婚】

バリで、メアリはアメリカ人ギルバート・イムレイと恋に落ちて、同棲、ひっそりと暮らし、女の子までもうけたが、彼の心は次第にメアリから離れていった。

失意のウルストンクラフトはロンドンに戻ったが、イギリスではフランス革命の暴力を非難し、革命は失敗したという保守的な論調が勢いを増していた。絶望した彼女はテムズ川で入水自殺をはかったが失敗、ようやく著述を再開、過激な政治闘争の主張は影をひそめ、女性の能力の解放をエレガントな文章で表現するようになり、小説も執筆するようになった。

またジャーナリストとしてスカンジナビアを旅行してそのルポルタージュを発表し好評を博した。

その間に当時著名な自由主義者、無政府主義者だったウィリアム・ゴドウィンと同棲するようになり、1797年、ゴドウィンの子を身ごもった。

結婚制度を共に否定してきた二人だったが、生まれてくる子が私生児ゆえに社会や法的権利上で差別されることを恐れ、同年3月29日、ロンドンの教会で結婚式を挙げる。これまでの自分たちの主張を覆す「教会での挙式」を選んだため、二人は多くの友人を失った。

同年8月30日、ロンドンで娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンを生んだが、出産からわずか11日後の9月10日、産褥熱のため死亡した。

享年38歳。

【娘 メアリ・シェリー】

なお、娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、後にロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと結婚し、メアリ・シェリーと名乗り、小説『フランケンシュタイン』の作者として名高い。


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