「まどろみの中の1年坊主」
3月生まれの私は、小学校入学時、まだ6歳になったばかりだった。
当時の自分を振り返ってみると、精神的な成熟度において、幼年期からまだ十分に脱していなかった。そう思える具体的なエピソードについて、いくつかお話してみたい。現実認識の中に、想像の要素が少しだけ紛れ込むこともあったのである。
私が通った鹿児島市立西田小学校は、明治8年に「武小学」として創立された歴史ある小学校。昭和30年代後半当時は古い木造校舎が立ち並んでいて、授業中、桜島の爆発的噴火が発生すると、木製の窓枠が振動しビリビリと音を立てていた。
南向きの校庭の朝礼台の背後に築山があり、子どもの姿をかたどった石膏像が何体が設置されていた。
その中に、立膝を両手で抱えて腰をおろしている子供の像があって、それが、1年生の私には何となく怖く怖く感じられた。大きさが自分の体と大差なく、中に子供が閉じ込められているかのようで、薄気味悪くて近寄りたくなかった。本当に子どもが閉じ込められているのではないかと想像したことさえあった。
その前年、幼稚園に通っていた最中の1961年の7月から3か月間、日本テレビ系で『恐怖のミイラ』というホラードラマが放映されていて、人気を博していた。その内容は、研究のために日本に運ばれたエジプトのミイラが夜な夜な蘇り、殺人を犯すというもので、子ども心に底知れぬ恐怖心を感じた。
放送の翌日など、幼稚園でミイラの硬直した歩きを真似る子どもがいたものだ。その番組への恐怖が、余韻としてまだ残っていて、校庭の石膏像が、それに重なって見えて、何とも薄気味悪く見えた。
敷地内の北東の隅に、今では見られなくなった焼却炉があり、その小学校では「ちり焼き窯」と呼んでいた。
各クラスのゴミ箱をそこに持って行くと、掃除係の6年生が受け取って中に放り込んでくれた。
1年生は、まだ赤子扱いで、5年生が代わりに掃除をやってくれることになっていて、ちり焼き窯に近寄ることさえできない。
中に隠れていたところ、間違って取り残されて、焼け死んだ子供の話も聞かされた。中で膝を抱えてうずくまったまま黒焦げになっている姿を想像し、恐怖を感じた。
校庭の隅にある石膏像とイメージがダブった。
「絶対に近寄らないように」
先生から、そう強く釘を刺されていたが、ダメと言われると逆にやってみたくなるのが人の常。掃除時間に、6年生がそこから灰を掻き出している姿を、いつも羨望の眼差しで見ていた。友だちとかくれんぼをしている時など、特に塵焼き窯の誘惑を感じたものだ。
こうして、いつしかその空間は、1年坊主にとって触れてはならない一種の聖域となっていた。
小学校からおよそ500メートルほど離れた位置に、城西公園という広い公園がある。今では、事故防止のため球技禁止になっているが、その頃はドッジボールや野球を楽しむことが出来た。他にそれほどの面積を持つ公園はなく、小学生たちにとって、そこは特別な場所だった。
自宅から学校まで、子どもの足で約6分。城西公園は、そのまた向こうまで歩いて10分。子どもにとっては、その距離がかなり遠く感じられ、そこに横たわる空間が恨めしかった。
― ああ、もっとそばにあったらなぁ・・・ ―
いつもそう思っていた。
そんなある日、こんな夢を見た。
人目を忍んで塵焼き窯に飛び込んでみると、その奥に丸い小さな出口があった。
そこから這い出してみると、何とそこは城西公園!
公園の隅に置いてあった3本の大きな土管の中の1本と、学校の塵焼き窯が空間を超えて繋がっていたのだ。
― 秘密の近道がみつかった! ―
魅惑的な夢だった。
アラビアンナイトのアラジンの魔法のランプや、魔法の絨毯にも匹敵する魅力を感じた。ほんの束の間ではあるが、それを本気で信じていたような気もする。
** ** **
販売部と呼ばれる売店に、綺麗な若い女性がいた。子どもの目には、当時国民の注目の的になっていた美智子皇太子妃にどこか面差しが似ているように見えて、憧れの対象になった。
消しゴム一つ買うのにもドギマギし、なかなか近寄れないでいるうちに、妄想が膨らんだ。
― もしかすると本物の美智子妃殿下が、極秘裏に小学校の様子を視察に
来ているのではないだろうか?
この小学校の子どもたちは、みんな良い子にしているかしら?
そうやって観察しながらノートを売っているのかも知れない。―
などと、すっかり想像逞しくなっていた。
そんなある日、消しゴムを買わなければならないからと、母親に申し出ると、ランドセルのポケットに小銭を入れておいてくれた。
それなのに、その日は買うのを忘れてしまった。
翌日は覚えていたが、美智子さまの前に行く勇気が持てなかった。
そのまた翌日、緊張する心を抑えて、帰る間際にようやく販売部に行く決心がついた。
「消しゴムをください」
ドキドキしながら、そう伝えた後、背中からランドセルをおろし、不器用な手先をポケットに入れた。
すると・・・
― 入っていない! ―
どれだけ探っても、何も入っていない。
これは、まずい!
美智子さまが見ているというのに・・・
焦った。
頬が赤くなっているのがわかる。
恥ずかしさの固まりと化し、消え入るような声を振り絞った。
「お金が入っていなかった」
女性は、呆れた顔をして、にべもなく鼻を鳴らした。
その瞬間、その人が美智子さまではないことを確信した。
恥ずかしさとショックのあまり、しょんぼりと肩を落として家路についた。
帰り着くや否や、猛烈な勢いで母に抗議した。
すると、母はあっさりとこう言った。
「何日も鞄に入ったままになっていたから、もういらないのかと思って、出したよ」
何でそんなに怒るのかと、母は驚いたが、それに対しては何も答えることが出来ず、ただ顔をほてらせてうつむくしかなかった。
** ** **
クラスには、いろんな子がいたが、みんな大人に比べて頼りなく見えた。先生や両親、そして全ての大人に比べて、遥かに頼りなかった。
― 頼りない仲間たちと頼りない自分が一緒に大人になって行き、いつか
は世の中を支えなければならない。大丈夫かなぁ・・・ ―
そんなことを考えることがよくあった。
大人の振る舞いは、いつも確信に満ちて見えた。道を歩くとき、大人はまっすぐ前を見て、そしてまっすぐに進む。それに比べて、子どもはキョロキョロしながら、周りのモノに気を取られ、急に走り出したり、スキップしたり、鼻歌を歌ったり、ずっこけたりしゃがみ込んだりしながら、いつもふらふらと歩く。これは大きな違いに思えた。
そこで、大人の真似をして自分もまっすぐ歩こうと決心したことがある。それが出来ないと自分は大人になれないと思った。
背筋を伸ばし、遥か前方を見据えながら歩き始める。
ところが、すぐにそれが窮屈になり、その決心も数分と持たずに敢えなく砕け散ることになる。いつものようにキョロキョロし始め、何度チャレンジしても、いつも結果は同じだった。
そのとき僕は、側溝を覗き込み、沢蟹を探していた。
すると背後から声が聞こえた。
「めどう、めどう、何をしているの?」
振り返ると、声の主は父だった。
恥ずかしかった。
道を歩きながらキョロキョロし、そのあげくに、しゃがみ込んで、無心に溝を覗き込んでいる。
大人だったら、絶対にそんなことはしない。
恥ずかしさのあまり、どう反応して良いかわからず、固まってしまった。
そのとき僕は、きょとーんとした顔をしていたらしい。まるで、知らない人に声を掛けられたようだったという。
後年、父から繰り返しそのことを聞かされた。そのとき無精ひげをはやしていたから、誰か分からなかったんじゃないかと言っていたが、そうではない。ただ、自分が無性に恥ずかしかっただけ。
** ** **
ある日曜日、母親と一緒にバスに乗り込んだ。そこは起点だったので、バスはしばらくエンジンを止めて発車時刻を待っていた。
大きなバスを動かす運転手さんの姿が神様のように立派に思えて、ふと、自分も大人が言うようなことを言ってみたくなった。
「このバス、5時に出るの?」
周囲からドッと笑いが起こった。
恥ずかしかった。
本当は何時発車だったのかは記憶にないが、子どもを連れてバスで遠出するのに、夕方5時なわけがない。1年生にとって、学校生活から解き放たれた休日の時間の流れは、ぼんやりと掴みどころのないものだった。
ウチを出る前、母は確かに「5時」という言葉を口にした。だが、それはバスの発車時刻などではなく、別な何かの予定だったのだろう。
「5時」という時刻は、以前から特別な印象があった。母は定時制高校の教師で、その時刻が出勤のタイムリミットだったらしく、よく「もう5時になった」と口にしていた。
5時が来ると、それを境に母は自分の知らない世界へと旅立つ。大人の世界への入り口が開く時刻のように感じられていて、その「5時」という言葉を使うことによって、自分が少しだけ大人に近づけるような感覚があった。
「どうして、みんな笑ったの?」
「あんたが5時に出るなんていうからだよ」
「どうして5時って言ったら笑うの?」
「まだ昼間なのに、5時なんかなわけないじゃない」
「だって、お母さんが5時に出るって言ったもん」
「お母さん、そんなこと言わないよ」
「ウチでお父さんと話してるとき、そう言ってたもん」
「あんた何か勘違いしてるのよ」
こんな具合に、大人に憧れ、背伸びしたいのに、いつもその方向を間違える1年坊主であった。
** ** **
自分を取り巻く生活環境は、よく出来ていると思った。出来過ぎていると思った。
バスが走り、飛行機が飛ぶ。テレビやラジオは魔法のように人の声や姿を伝える。
昔の人は、井戸や川から水を汲み、重たい思いをして水を運んだ。今は水道から水が出る。
テレビで時代劇を見ていると、やたらと人が斬り殺される。殺人だらけの殺伐とした町が、実際の江戸だと思い込んでいた。
隠密剣士は、天上に曲者がいると、眠っていても目を開き、刀を引き寄せた。
― すごい! ―
自分には到底そんなことなど無理だ。簡単に殺されてしまう。江戸時代とは、ぐっすりと眠っていられないほど大変だったのか・・・。便利で安全な現代に生まれたことを幸運だと思った。
それ以前に、人として生まれたこと自体がラッキーだと思った。犬や猫や亀や蟻に生まれたと思うとぞっとした。
― この世は、自分にとって、どうも都合よくでき過ぎている ―
当時流行していた歌の一部に、こんな歌詞があった。
― 君には君の夢があり、僕には僕の夢がある
ふたりの夢を 寄せあえば ―
「夢」という言葉が、将来への希望をまだ知らなかった。だから、それは奇妙な言葉に聞こえた。
― 夢を寄せ合う? 自分の夢を見れるのは自分だけなのに、
どうやってそれを合わせるんだ? ―
耳にするたびに、その部分が気になった。
君が見ている夢、僕が見ている夢・・・
― そうだ、この世の中を自分の目で見ているのは、自分だけ。
自分以外の人の目で、この世を見ることはできない。
他の人の目には、どのように見えているんだろう?
もしかすると・・・、
今自分の目に見えているのは、
自分だけが見ている夢なのかもしれない ―
妄想が膨らんだ。
― もしかすると、今自分は、長い夢を見ているのかもしれない。
夢から覚めたら、どうなるんだろう?
目覚めたときの、本当の姿はどんなんだろう?
長い夢を見ているんだから、長く眠る動物なのか?
だとすると、夢を見ている本当の自分は、
冬眠中の熊なのかもしれない ―
そんなことを考えてしまうほど、今生きている現実が、頼りなく手応えのないものに感じられていた。
大人になってから、今は亡き伯父に言われたことがある。
「子どもの頃のめどう君は、夢見がちなところがあった」
3歳下の従弟も、それに付き合っていたそうな。
そう言われたときは、夢見がちだった自分とは、具体的にどのようなものだったのかピンとこなかったが、こうして、1年生の頃を思い出してみると、確かにその頃の自分は、かなり重症の夢見小僧だった。
そういう夢想的な傾向は、1年生の頃までで、2年生になると、さすがにそんな傾向も影を潜めたように思う。
こうして当時に思いを馳せているうちに、その頃のままの自分が、現在でも心の片すみに生き続けているような気もしてきた。
現在、マジシャンとして現実空間の中に幻想を描くことに取り組み、その中でもメンタルマジックという心の内外が溶け合うような演目を好んでいるのは、そういった部分の表出拡大かもしれない。
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