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白鳥はかなしからずや

 レースカーテンが掛かった窓から、6畳一間1Kに青色の光が差し込んできた。カーテン越しに透けて見える外は、濃い群青色をしている。
 だらだらと酒を飲みながらゲームをしていたら、いつの間にか夜明けの時間になっていた。お互い5月の連休は予定がなく、バイトするか酒を飲むかレポートを書くかの3択で生活している。
 バイト帰りの河島友也が、バイト先の焼き肉屋からチャンジャとカクテキをもらったからとやってきたのは、昨夜22時頃だった。俺はちょうど日本文学の授業で出た若山牧水についてのレポート課題をやっていた。
 理学部数学科の友也とは、1年生のときに同じ教養科目の「哲学概論」を履修したときに、たまたま隣に座った縁で、時折一緒に酒を飲むようになった。3年になった今でも、こうして月数回は一緒に飲んでいる。
「哲学のない大人って、なんかカッコ悪いだろ。それに、自然科学系を学ぶやつが人間性高めないと、ただのマッドサイエンティストになるじゃん。あー、あと数学と哲学ってなんか似てる気がするんだよな」
 初めて一緒に飲んだ時に、理系の友也がわざわざ哲学を選んだ理由を聞いてみたら、そんなことを言っていた。そういうところが人文学部哲学科の俺となんとなく気が合う理由かもしれない、と友也に言ってみると、「それは、好きな酒と飲むペースが似てるからだろ」と茶化された。

「なあ宮原、俺は、未来を見に行くぞ」
 表面が乾燥してきたカクテキに箸を伸ばした友也が、唐突に言い出した。
「つまり?」
「言葉通りの意味だよ。過去のことばかり学んでいても、未来は見えてこないってこと」
 友也はカクテキをぽりぽり咀嚼しながら、据わった目で続ける。
「別に宮原がやってるようなことをディスってるわけじゃないぞ。それをこれからどう活かすかって視点が軸足にないと、ただの頭でっかちになっちゃうだろ」
「自分で言うのもなんだけど、哲学が社会で役立ったり活かされたりする場面ってほぼないと思うけどな」
 俺は空のグラスに手酌で焼酎を三分の一くらい入れると、そのグラスを持って流しに行った。
「まあ、いわゆる論理的思考みたいなものは使えるだろうけど、そんなのどの学科でもそうだろうし」
 友也に背中を向けたままそう言うと、水道のレバーを下げ、グラスに水を注いで水割りを作る。
 振り返ると、友也がすぐ後ろにいた。
「おおっ、びっくりした。急に音もなく後ろに来るなよ。ビビるだろ」
「宮原、ちょっと近くの公園まで散歩しないか。酔い覚ましがてら」
「いや、今水割り作ったばっかりなんだけど」
「まあまあ、そう言わずに。未来を見せてやる」
 にっと笑ってそう言うと、友也は俺の後ろを通って玄関で靴を履いて出て行ってしまった。
 俺は水割りを一口飲んでから、友也の後を追った。

 外は思ったより明るくなっていて、思ったより寒くなかった。
 新聞配達のカブが自分たちを追い越していった以外、外に出ている人に会わずに近くの公園まできた。
 普段から閑散としている公園は、いつも以上に存在感がなく、ここだけ世界から切り取られているようだった。
「じゃあ、あそこのてっぺんまで登ろう」
 黙って歩いていた友也は、公園の真ん中あたりまでくると、ジャングルジムを指さして言った。
「宮原、『今』と同じ地平からは未来は見えないんだぞ。物理学的にも哲学的にも」
「お前……やっぱ哲学のことディスってないか」
 友也は俺の小言を無視してジャングルジムを登り始める。一番上の段に両手をかけて、左足を下から2段目にかける。「よっ」という声とともに、右足を3段目に乗せる。右足が浮いた瞬間、寝ていたジャングルジムが不意に起こされたように、ギッと金属質な鈍い音が鳴った。
 するすると4歩で頂上まで登ると、四つん這いの姿勢からそっと手を離して、友也は戦隊ヒーローのように仁王立ちになった。
「おい、宮原、早くお前も登ってこい。そこからは未来が見えないぞ」
 俺は友也が何を見せようとしているのか、想像しながら渋々ジャングルジムに手をかけてゆっくり頂上まで登った。子どもの頃より目の位置が高くなったせいか、想像以上の恐怖感で手を離して立つまでけっこう時間がかかった。
 友也は俺が立ち上がるまで、仁王立ちのままじっと待っていた。
 俺はへっぴり腰になりながら、小学生みたいな感想を友也に言った。
「さっき思ったけど、夜明けって青いんだな」
「それだよ。さすがだ。よく気づいた。未来は青いんだ。これから始まる一日は、青から始まり赤く過去になっていくんだよ」
 友也は仁王立ちで、雲がたなびく東の空を見つめながら言う。
「宮原、想像してみ?『スタートレック』のエンタープライズ号のクルーは何色の服を着てる?」
「え?……黄色?いや、青か?」
 俺はもう立てなくなって、四つん這いになりながら答える。赤い服を着ていたクルーもいたような気がするけど、自信がない。
「そう、青いんだよ。青地に黄色のラインがあるやつ。『スターウォーズ』のジェダイもライトサーベルは青。古臭い帝国主義を進めるシスは赤」
 なんだかこじつけのような気がするし、『スターウォーズ』って「遥か昔」の設定じゃなかったか?
「未来の世界で食べられているゼリーみたいな栄養食も不味そうなケーキも、青っぽいやつが多いと思うんだ」
 青と赤。
 未来と過去を象徴する二つの色。
「ほら、もうすぐ未来だ。青い夜明けが始まるぞ」
 友也が指さす東の空が白く明るくなってきた。
 そして、段々と赤く、朝焼けに染まってくる。
「おい、友也。赤い未来が始まったぞ」
 友也を見上げると、ぽかんと口を開けていた。それからゆっくりとこちらを見下ろすと、一回口をへの字に閉じてから、絞るように言った。
「……全部、忘れてくれ」


 俺は、赤と青の太陽が交互に上る世界で、将来のために野菜づくりを研究している。
 太陽が二個もあるせいで、世界は乾燥気味だった。井戸を掘ってもすぐに枯れる。乾燥に強いトマトも、影のなかじゃないと干からびる。
 未来のために今、試行錯誤して乾燥に強い野菜を育てる。
 しかし、今のこの状況は本当に不幸だと言えるんだろうか。起こった出来事の幸不幸は、起こった時点では分からない。天然の食べ物が作れないから、青いゼリーの栄養食が発明された。しかも意外と美味くて、これが食べれるだけでも十分幸せという人も多い。
 ただ現状を不幸だと嘆くだけでは、それを改善する行動には結びつかない。不幸の渦中にあっても、未来を見据える覚悟を持てる人だけが、過去の不幸を未来で幸せに書き換えることができるのではないか。
 しかし、今日はとりわけ暑い。
 砂地を掘り起こしてトマトの苗を、水循環システム搭載プランターごと埋める。汗が止まらない。苦しい。少なくとも今は幸せではない。

 俺は汗だくになって目が覚めた。
 二つの太陽が照り付ける中でトマトを植えていたのは、夢だった。
 大きく息を吐いてから起き上がると、汗だくになったロンTを脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。上半身裸のままキッチンで洗い物かごに入っていたカップを手に取り、水道水をなみなみ注いで音を立てて飲んだ。
 朝焼けを見てから口数が少なくなった友也が帰った後、俺はどうやら片付けはしていたらしい。
 もうすぐ就活が始まる。実学系学部ではない俺は、就職先なんてどこでもいいと思っていた。
 でも、未来のために今動くのも大事かもしれない。
 赤信号で止まるのも、赤点を取るのも、酒代がかさんで家計が赤字になりそうなのも、もしかしたら今の時点では不幸やダメな状況とは言い切れないのかもしれない。
 朝焼けが赤くても、その後に青空が広がるかもしれない。
 青さは時に眩しすぎて、目を逸らしたくなる。俺はずっと青さにのまれて目を逸らしていたのかもしれない。
 未来は、青い。
 友也の言葉をもう一度反芻して、飲み込む。
 部屋に戻ると、レースカーテンの向こう側に青空が見える。
 パソコンを立ち上げると、書きかけの若山牧水のレポートが開く。
 空の青、海の青にも染まらずに漂いながら、進めばいい。
 指先で脂の浮いた鼻をかく。手から鉄錆のすえた匂いがした。



七緒よう


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