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朝日記 2024年5月10日(金)

久しぶりに「ない」という「穴」や「怖さ」みたいなものをありありと感じたので忘れないうちに残しておく。

原因は明白で昨日自分が「苦手」「できない」と思っていることを久しぶりにやって「やっぱりできない」と感じたから。

多分それはもう少し時間をかけたらできたのだと思う。

「できなかった」と判断するにはあまりにも材料が足りない。

「できない」ことの解像度が荒すぎる。

そう理解はしている。

それなのに、私の脳は「できなかった」とすぐに結論づけたがる。

それはそういう思考が30年以上もの間私のスタンダードだった、ということと、それに加えてほんの数ヶ月前それに対する大きなトラウマとして出来事があったからだと思う。

事務所にいて、やらなきゃいけないことは山ほどあって。

毎日、毎日仕事が終わらなくて、明日が来ることが怖かった。

事務所を出るのも遅く、家に着くのは23時過ぎなんて当たり前。

家でも仕事をした。

そのうちうまく寝られない日が続いた。

そんな日が続いたある日、事務所で突然頭が真っ白になった。

頭が働かなかった。

手が動かなかった。

やらなくちゃいけないことがたくさんあることだけはわかるのに、何から手をつければいいのかわからなくなってしまった。

PCに乗せた手が動かなかった。

「これも違うって怒られる。」

「あれも違う。」

「何やってんだ、早くしろ。」

「なんでそれ先にやったの?」

「考えた?考えてないよね?考えたらわかるよね?」

「なんでやらなくちゃいけないことやらないで、お前がやならくていいことやってるの?」

「無駄。」

頭の中でそんな声が響いた。

涙が止まらなくなった。

人に見られたら心配をかけると思って事務所から出て非常階段へ逃げた。

そのうち息もうまくできなくなった。

昨日「苦手なこと」、やっぱり「できなかった」自分を目の前にして、そんな光景がフラッシュバックした。

事務所で頭が真っ白になって手が止まったあの日を思い出した。

今朝目覚めてもその感覚がうっすら残っていた。

ざわざわしている。

心に穴が空いているような、そんな感覚。

でも以前と違うのは、このざわつきは何を私に伝えようとしているのか?と問いかけができているところ。

このざわつきがあっていいものだとしたら、その前提があるならば、
私は何を感じる?

ざわつきがあってもいい。

ざわつきから逃げたい私がいてもいい。

穴があってもいい。

できない私がいてもいい。

思考ができなくてもいい。

「ない」があっていい。

これら全部があっていいものだとするなら?

そこから見える景色はどんなものだろう。

そこから感じるものはなんだろう。

それを今日はじっくり味わう日にしようと思う。


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