ポラン書房、つげ義晴と純文学
大泉学園にある古本屋。
店長のこだわりを感じさせる趣味のいい本が多く、ちょくちょく立ち寄ってましたが、時代には抗えず閉店するという。
感謝とリスペクトの気持ちで閉店セールで数冊購入。
絶版で入手を諦めてた本も見つけてホクホクでした。
入店時には店長のメッセージも手渡され、なるほど「紙のページをめくる喜び」にこだわっておられるとのことで無念さが伝わりました。
芸術新潮2014年1月号
つげ義晴特集。
ムック本月刊誌なのでとっくに絶版。
ただ、実はトンボ本からこれを加筆編集した本が出ていて、それを持ってるのですが、サイズが違う。それはA5サイズ。芸術新潮はA4サイズで単純に、
デカい。
つげ作品は見開きで魅せるところも醍醐味の一つ。それをA4で堪能できるのは嬉しい。
帰宅後何度も見てしまいました。
つげ義晴は、作品によっては結構エゲツない描写があったり、今の時代にそぐわない表現があったりするので、誰にもお勧めできるタイプの作家ではありませんが、読後の「置いてかれ感」とか余韻は、紛れもなく純文学の感触なのです。
純文学は読後しばらく放心状態というか、「なんだったんだ今のは」みたいな満たされないモヤモヤが残って、なんだか気になって何度も読み返してしまう。
単にストーリーを追うのではなく、情景とともに描かれる心象だとか、はっきりと描かれない、説明されない行間とかを味わうというか。
娯楽小説や娯楽漫画はストーリーへの依存度が高すぎて、読み終えると面白くても面白くなくてもおなか一杯。言ってみれば、読者は才能ある作者に隷属するような感じ。読み手の感性より著者の才能の支配する割合が大きい。
純文学は読み手の感性に多くが委ねられている。その楽しみ方がわからない人にはチンプンカンプンだし、わかる(というよりハマる)人にはハンマー級のインパクトだ。
不快な描写も、単に「不快だ」と切り捨てるのは簡単だが、「不快の先に何を描こうとしたんだろうか?」って考え始めると、何度でも読み返してしまうのです。
そんなスルメのように何度も読んでは思いを巡らせ、そしてまた読み始める、そんな楽しみを与えてくれるのが自分にとってのつげ義晴なのです。
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