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道:心のざわざわに向かい合い続ける

もう半年ぐらいずっとシャドーイング(音声のあとからついていって復唱すること)をしているBig Magicという本があります。Eat, Pray, Loveの著者Elizabeth Glibertが「クリエイティブに生きるとは」について書いた本です。

この本のざっくりとした内容や受けた(現在進行形)影響については、こちらのブログに書いています→翻訳書ときどき洋書「華道家のアトリエから」

昨日シャドーイングをした場所の内容と、いけばなを続けてきた中で自分が感じてきたこと、現在いけばなを広げる活動をして感じていたこととが、ぴったりはまったので、書いてみることにしました。

Elizabethが大好きな瞑想の先生が、瞑想をしている人たちの最大の問題として「これから『おもしろくなるぞ』という時にやめてしまう」ことを挙げています。つまり、瞑想することが簡単ではなくなり、つらくなったり、飽きたり、ざわざわしたりしてきたら、そこでやめてしまう、と。自分の心の中に、怖いものや自分を傷つけるものを見たとたんに、人は瞑想をやめてしまう。そこでふんばれば、あるハードルを越えて、自分の中にある新しい未踏の宇宙に入っていくことができるのに。

これ、いけばなでも同じだなあ、と思いました。私自身が、まさにこのプロセスを経験しています。最初の頃はただただ楽しくて「花をいけるとリフレッシュするー」とか言ってるんるん通っていましたが、だんだんと、自分に技が身に付いてきたかなと思ったあたりから、空回りしはじめてうまくいけられなくなり、うまくいけられないからなんかイライラするようになり、結局いけばな自体が嫌になってしまって、一度やめました。

そのあと、人生いろいろあって、いけばなを再開し、その後は、例えうまくいけられなくても「ああ、今日は私は花の声が聞けないんだな」と、そのままを淡々と捉えられるようになって、花のせいにも自分のせいにもしなくなって、ただ黙々といけられるようになっていきました。

どんな創造においても、きっと同じような過程を経るんだと思います。最初は純粋に楽しい。創造の喜びにダイレクトにつながれる感覚。でも、創り続けていると、それまでとは違う自分になっていく。何らかの変容が頭と心と身体に起こり始める。でもその変化はばらばらに起きるので、頭と心と身体がうまく連動しなくなって、バラバラな感じになってしまう。そこでやめてしまえば、それで終わり。もしなんとかふんばってやめないで続けていくと、だんだんと新しくなった頭と心と身体の連動ができるようになる。

それを考えると、いけばなをはじめとする日本の「道」の世界の、「一度やると決めたらとにかく生涯続ける」というある種の強制力は、実はすごくよくできた仕組みなのではないかと思いました。なんか楽しくなくなってきたから、やーめた、と言わせない。嫌でも何でもとにかく続けさせる。続けることではじめて見えてくる新しい世界があることを知っているから。

年に一度、いろんな流派の方が出す展覧会に参加していますが、そこはいけばな数十年選手がほとんどで、その方々の作品に毎度びっくりしています。いけばなとしてすごい、というのを超えて、もはやこれは何だ?みたいな。こんなぶっとんだ、でも整った作品、誰がいけたのかなーと思ってみてみると、いたって普通の小柄なおばあさまだったりします。

たぶんみなさま人生で何度もいけばながつらくなったり、飽きたり、ざわざわしたりしたと思うのですが、「とりあえず続けるものだから」という中で続けた結果、すんごいものを創り出す人になっている。でも「道」とは、結果ではなく過程に重きを置くので、それにおごることなく、見せびらかすことなく、ただ生涯、いけ続けている。

常に反感が先に来ていましたが、こうやって考えてみると、「道」の仕組みって、人を生涯かけてより創造的な存在にしていく、すごいものなんだな、と改めて思います。

ただ、やっぱり時代は変わっていて、人は昔より辛抱ができなくなっているし、「とりあえずやる」というのだけではもうやらなくなっている、という現実は踏まえないといけないと思っています。

だから、私は、毎度のレッスンをなるべく密度の濃いものにして、レッスンそのものが楽しくて気持ちよい時間が過ごせるように、自分でできる限りの工夫をしながら、同時に「なぜいけばなをやるのか」といういけばなの現代における意味の言語化や実装もやっています。

さらに、IKERUの個人向けレッスンを始めて2年が経ち、そろそろレギュラー陣が、だんだんと「うわー、いけばなって楽しい!」というキラキラモードから脱皮を始め、つらくなったり飽きたりざわざわし始めている頃でもあり、どうしたらいいのかな、といつも考えていました。

そして、思ったのが、私自身が常に「花をいかす先に作品が立ち現れる」といういけばなに向き合い続けることでしかない、ということ。

どうする、というより、どうある、か。

「あり方」の一つの表現として、これまでレッスンでのその日の花材を使ったデモンストレーションでは、基本の型をいけていたのですが、それをやめて、その時のインスピレーションで自由にいけてみることにしました。作品の即興性を高め、何ができるかわからない、という姿をそのままお見せする。

自分としては、今まで以上に、ざわざわします。ここまでいけばなをやっていれば、時間をある程度かければどんな花材でも作品をつくることができるようになっているけれど、何せ公開デモ。数分という短い時間で、いけ直しなし、かつ型を外れていける、となると、自分の未踏の部分に踏み入れている感覚があります。たった数分なのに終わると体温がきゅーっと上がっています(免疫力上がりそう)。

そして、きっと、この自由にいけるということにも慣れてきたと感じたら、そこに安住せず、その時はさらにまた違う、もっと自分の心がざわざわすることに向かい合っていくことになるのだろうなあ、という予感があります。それが何なのか、今はわからないけれど。

これこそ、道、なのかな。

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