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【塾長冨田麻友自己紹介〜前半〜】          15歳、AKB48合格後1年間で脱落する  ※ここで書いてあるのは全て私が経験した本当の話です。

※写真はウェブサイトから引用しました。画質悪くすみません><


初めましての方も多いので、

私冨田麻友について自己紹介したいと思います!

兵庫県生まれ香川県出身で

5歳でジャズダンスを始めステージに立つことにワクワクを覚えました。

スポットライトや可愛い衣装を着れることが
何より楽しかったのを覚えています。

地元のダンススクールには本当によく面倒を見てもらい感謝しています。

15歳、たまたまテレビでミュージックステーションに

出ていた女の子達。

その時「スカート、ひらり」を歌って踊っていたのは
デビューして間もないAKB48でした。

ハロプロ世代でモーニング娘が大好きで松浦亜弥ちゃんになりたいと思っていた(笑)私は興味を持ち、

オーディションを受けることにしました。
(実は幼い時から色んな芸能オーディションは受けていました。)

母は元々ホリプロタレントスカウトキャラバンの第1期生を受けた経験があり、祖父母の反対で夢を断念したこともあり私の芸能への挑戦は共に応援してくれていました。

父もプロの野球選手を目指していたので私の挑戦に対して前向き。

本当に軽いノリで受けたら、そのまま最終まで行き

なんと研究生オーディションに合格。。。!

何を研究するのか分からないまま(笑)東京に上京することになりました。

地元香川の中学での合唱コンクールに出て

そのまま卒業式は出れず、すぐ東京に上京。

そこからは「地方組」として

皆家がないので初めは社長の借りてくださっていた家に泊まらせて頂き

その間に母が家を探しました。

幸い私は兄が元々東京の大学に行っていたので
一緒に住むことが出来ました。

地元の中高一貫校に入っていたのですが
劇場のある東京で高校を探すことに。

芸能コースがある高校に進学し
高校生活と劇場を行ったり来たりする生活が始まりました。

劇場に出続ける中で
「自分は何者なのか」不安と焦りが出てくるようになりました。

ーキャッチフレーズを決めれない。

当時香川出身のメンバーが私だけだったので
「うどん大好き」と言ってたの覚えています笑

まだ15歳。

ー自分のブランディングがわからない。

ファンをつける?

ーつけ方がわからない。

違和感を感じたのが何より

ー「痩せてないといけなかったこと。」

私は研究生という立場でコアメンバーが仕事や事情でステージに出れない時

所謂穴埋めでステージに出れる立場でした。

私は幼い頃からステージに出ることが何より幸せで楽しんできたので
それで充分でした。

しかし、スタッフの方々から日々

「人気が出ないと表に出せない。」
「痩せてないと衣装が入らない。」などという圧がかかるようになり

大好きだったステージも日々楽しめなくなっている自分がいました。

16歳も近づく頃研究生を増やしすぎたのか

研究生を再度篩い落とす内々のオーディションが劇場であったのです。

その頃私は確実にスタッフの方に所謂、「推されていない」ことに
気付いていた為、私が落とされる事は目に見えていたので
ここだけの話、適当な振る舞いでオーディション現場にいました。

案の定私は脱落。

その理由は未だ不明。

(私も今経営やマネージメントに携わる立場になり
当時のスタッフの方々の気持ちはわからなくもないですが
ティーンエイジャーに言い渡す解雇理由はもう少し明確にしてくれてたら親切だったのになーとは思います。笑)

ただ正直私は

「やっと辞められる。」と自由になった気分だったのです。

落とされたメンバーに復活条件がありました。

「今日落とされたメンバーも次回6期生のオーディションの最終審査から 参加できる権利を渡す。」

そう言い渡された瞬間に私の中で何かがパチンと弾けました。

「私は何のゲームに引っかかったんやろか。」

単純に「ないな。」と思いました。

どれだけチーム・プロデューサーが著名でも、

これからこの中で有名になれたとしても、

お金持ちになっても、

ー私にとって「本物ではない。」

当時の私はそう感じたのです。

私には一点の光がありました。

それは「海外に行きたい。」という想い。

そう、私には海外という光があったのです。

私以外の当時の脱落メンバーはほとんどそのシンデレラストーリーに参加。

その後どうなったかは追っかけてはいませんが

私にとってはまさにこの「脱落」こそが、
「人生の転機」となったのです。

ただ悲しかったことが2つありました。
1つ目は、親に心配をさせてしまったこと。

当時は2ちゃんねるでの書き込みが激しく
親は心配のあまり見てしまっていました。

冨田麻友、脱落

期待も大きかった分その真実を伝える瞬間はとても悲しかったです。

2つ目は、私を応援して下さっていた方々へ最後ステージで
挨拶さえ出来なかったこと。

毎日劇場に来て私の似顔絵と手紙を書いてくれていた方、
応援の声を出して下さったいた方、
沢山のプレゼント。

最後卒業きちんと挨拶がしたかったです。

ただ、

私の心は反面、

ー清々しかったのです。

「よし、本場を目指そう。海外に行く。ダンスが好き。
本場で思いつくのはNEWYORKしかない。」

海外を本気で目指すようになった頃私は17歳でした。

次へ続く 
【18歳、始めて一人でNEWYORKへ行きそこから各国を転々とする】


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