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大人社会の拡がりが、子どもの可能性の拡がり。

昨日、主人と公園に行くと、主人のスケボー友達がスケボーの練習をしていた。その人は親子や親戚、その友人と大所帯で練習に来ていて、子どもも沢山いた。

その中の、ヘルメットを深々と被った体格のいい小学校低学年の少年が、主人に話しかけた。

「ねえ、うちの〇〇パパ(スケボー友達の名前)のお友達?」

「そう」と主人が答えると、照れくさいような嬉しそうな顔で、「へぇ、そう✨」と練習中のスケボーに乗って行ってしまった。

その光景を見てて、自分の親や信頼のおける大人の「友人」って、子どもにとってすごい良いポジションだし、その存在を確認するだけで、子どもにとってどんだけ良い影響があるのかと思って、かなりの良い気づきになった。

というのも、

私は今、学童保育で放課後児童支援員をしていて、主に子どもに関わっていて、そして、ちょっとだけ、その親御さんにも。

その中で、なるべく子ども達の価値観が拡がるような関わりを心掛けている。例えば、私が学校の決まりや体操服などについて「私はああいうの要らないと思うなー、あなたはどう思うのよ。」とか、自分の意見を正直に言い、彼らの意見を聞いてみたり。さらには、「うちのお母さんはそんな格好をしない」と、子ども達が言うような、派手目の(自分的には)めっちゃカッコイイ服を着て出勤したりする。

いろんな考え方や、いろんな好み、見た目がある、というのを体現するためだ。

心掛けて、関わり方を工夫していると、それなりに子どもたちも、自分との違いや異質なものに対しておおらかになってきた。

よく、道徳で口酸っぱく言われ、求められる「思いやりのある行動」の基盤には、自分との違いや異質なものに対するおおらかさがあると思っているので、今後彼らが生きてく上で、大切なものを育んでいるとの自負はある。

しかしながら、やはりまだまだ自分の力不足や、物足りなさを感じる時もある。

子ども達が、世の中の様々な職業に対する偏見を、さも自分の意見のように語っていたり、勉強の出来不出来で、人を賢いとかバカとか言っていたり。「誰がそんなことを言ったの?」と聞くと、一番近い大人である親が言っていたりする…という結末。

ここで私は、そういうことを言う大人や親を咎めたいのではなく、「大人の生きる世界の狭さ」を解消する手立てを講じたい。

自分とは違うもの、異質なものを攻撃したり、拒絶したりするのには、ワケがある。

違うものが不安で怖いからだ。

自分の快適な空間や環境、考え方をはみ出ると不安でならないのだ。集団で生活するのが習性の人間にとっては、「異質」は、我々の生活を脅かす敵として認識してしまう。

ということは、様々な価値観や見た目など、多様なものに、楽しさや安心感というという付属品が加われば、受け入れることへの困難さが軽減されるのではないだろうか。

その、最たる例が、ヘルメットを深々と被った少年と、うちの主人との出会いに隠されていた。

うちの主人は、それなりに見た目が得体がしれない笑。自営業なので、雰囲気もそこら辺のお父さんとちょっと違う。昼間からスケボー乗り回して変わってる(ここまで来ると悪口)。

「だけど、大好きな親戚のスケボーおじちゃんの友達だったら、仲良くしてもいいじゃん。」という気持ちに、少年はなったはず。

そう。大人の、趣味や楽しみを通してできた友人は、子どもの目から見ても魅力的に映ったりする。そして、安心感も得られる。というのも、大人同士が肩肘張らずにリラックスして話をしている雰囲気を、感受性の強い子どもが察知するからだ。

趣味の多いあなたや、交友関係の広いあなたならわかると思うが、同じ楽しみを通してできた繋がりは、職業や見た目の違い、はたまた国境をも軽々と飛び越えてしまう。その異なるもの同士の共通の話題や楽しみから育まれた安心感を、子どもと共有することができたら、とても良いかもしれない…。

「大人の楽しみや幸せな時間は、子どもの幸せに繋がり、さらに多様な価値観や世界の入口になりうる。」

私は、スケボーおじさんとスケボーヘルメット少年との出会いの場面により、こんな仮説を見出したのだ。(壮大)

そんなこんなで、私は放課後児童支援員歴5年という節目に、親子が集うコミュニティーハウスを作ろうと目論んでいる。

親自体が心からリラックスして、共通の話題や楽しみを通じて繋がれる場所。そこに子どもが入り、新しい多様な世界への入口になる。

そんな場所が目標だ。

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