無題

 無題という題について、学生の頃考えた。
 例えば手癖やそのまま発露された感情を表現したとして、そこには無は存在し得るのだろうか。
 単なる批評ではなく、思考の追求として読んで頂けると幸いである。

 ひとつ、題がないことの美しさというものがあるとも思う。タイトルの持つ力というものはかなり強い。曲や絵画、小説、このような短文においても、第一印象且つ全体のテーマとなる。
 それを定めないことで、全てが鑑賞者に委ねられることとなる。
 しかしながら、無題というタイトルを付けておきながら、無題について語ったこの文章における題の《無題》はテーマとして成立してしまう。
無題は無題という意味があり、無題という題で無題について書いたらそれは本当の意味での無題ではなくなる。無題を書こう(描こう)!と思って出来るものではない。出来てしまったものに対して付ける場合が多く、つまりはテーマやコンセプト等に縛られない美しさがあるとすることが出来る。

 ふたつ、思考の放棄としての無題は絶対に存在する。その場合については、あまりに梯子をはずされたような気のして、自身はあまり納得がいかない。何かを鑑賞し、それについて考える際のヒントというかフックがあまりにも無さすぎる。研磨された大理石づくりの壁を登るようなものだ。しかしそれも、あえて梯子を外すことでごちゃごちゃ考えずに黙って見ていろというメッセージにもなるのだろうか。そんなこと言われたって既にもうごちゃごちゃ考えてしまっているのに、こっちは。そのもどかしさや違和感を楽しむのも一興なのだろうか。そもそも極端な話、題をつけること自体ナンセンスなのだろうか。


 ここまで語っておいてなんだが、自身は《無題》という題は嫌いではない。そこにただ佇んでいるかのような、深淵に立たされているかのような気分がたまらない。無題という題の絵でも描こうかしら。いや、だからそれは無理なんだって。

 あと普通にめちゃくちゃ体調悪い無理というのでずっと悶々としていて、病院の予約も午後診療まで取れなかったし、暇すぎて長ったらしい文章書きました。ごめんなさい。楽しんで少しでも一緒に考えていただけたら幸いです。

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