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昨今の障碍という考え方について

いいとか悪いとかそういうことではないというのを先に書いておきます。

かねてより書いていますように我が弟は身体障碍を持っています。
聴覚障碍と言語障碍も持っていることから、外界とのコミュニケーションが著しく少なかったことで、さまざまな問題を抱えることとなったわけです。

さらに、歳をとってきて今まで無理に動かしていたこともあり、頚椎に負荷がかかり車椅子となったのですが・・・・

父が存命であった時から私も参加して弟について口出しをしておけば良かったのではありますが、私自身約18年前(父が身罷った頃)まだ長女は高校に入る前で・・
仕事と育児とさまざまなことがあり、ついでに言えば夫の家と私があまり仲が良くなく、てんてこ舞いであったのは今となっては懐かしいほどかもしれない。

さて、昨今、さまざまなことが変化につぐ変化をもたらしている。
インターネットという世界が広がって一般の人もそこで発信などもできるからこそ、世界が大きく変わったように見えるのかもしれない。

が、以前からそんなことはあったし、見える範囲(その個人の)が広がったから「世界はわかっていく」と感じているだけの場合もある。

そして何かあれば「障がい者か」と引き合いに出されることもあり、実際に車椅子ユーザーの方をはじめとした、身体障碍を持たれている方が考えればわかるものを「世界の変化のために」と動いているのも実際にはおとなしく過ごしている障碍者の生活に危険をもたらしている。

以前、JR関連での車椅子ユーザーの件で、実際に私の弟と母もとばっちりを受けたと言っていいのではないかと言うこともあった。
実害があったわけではないが、バスに乗る際にどうしても運転手さんのお手を借りたり、時間を使ってしまうことは申し訳なく、また感謝もある。

しかし、そのバスに乗っていた乗客の1人に大きく舌打ちをされ、陰口のように「これだから障碍者は迷惑なのだ」と言われたのを覚えている。
私はこうした人間なので「運転手さんに感謝し堂々」としているのだが、年老いた母はそうではない。

障碍者を産んだことで親戚に白い目で見られ、疲れて居眠りしようものなら「嫁が昼寝するとか」など言われたものだ(幼少期のことではあるが覚えている)
また周りからも今よりも俄然白い目で見られていたことも少なくないし、私自身小学校で「障碍者の姉」と言われたものだ・・
まあ、この点に関しては、学校で荒ぶって意見を大声て言ったので担任自体もびっくりしていたが・・・(一応書いておきます、日頃はおとなしいです(笑))

さて、弟が身体の痛みなどで眠れなくなり精神的に参ってしまい、心療内科で訳のわからない処方をされ(現在は新しい心療内科で私と相談し、減薬をはじめ作業所でも意見の言えるしっかりした面があるとおっしゃっていただけるほどです)そこを「宗教を発端とした健常者に騙されてかなりの金額を搾取された」ことがあり、てんやわんやだった。

その時に、担当した地域安全課の方に言われたことがいまだに反論しなかった(理由あり)のが悔やまれて仕方がない。

弟は歩くのでさえ大変で、その頃は今よりはマシだが歩くのもだいぶ困難になってきている頃・・・その安全課の方はこういった・・

「車に乗って、移動して、書類にサインさせられたと・・なんで逃げなかったの?」

歩くのでさえ困難な者が、車から「それには承諾できないっ」と車を飛び降りて駆け出し逃げられるのだろうか?
状況を見ているようで見ていない相手である。

まあ、この間に私は弁護士さんに相談し、相手の情報を調べ上げがんじがらめにして相手の方は「刑事課」にお任せすることになったのは言うまでもない。

わかるだろうか・・障碍というものは、困難さを多く持ち考えもせず、自由気ままに社会の恩恵を受けられるものではない・・だからと言って、社会のルールから外れていいものでもない。
私の母は「障碍があろうと、身だしなみをしっかりしなさい、何かで手を借りたらありがとう。そして悪ことがあったらごめんなさいです」と真っ向から立ち向かって戦った人だ。

親戚にも張り合った。
そして子供を4人も亡くしたにも関わらず、いまだに厳しく弟の面倒を見ている。

障碍があるから、かわいそうだからと、家族が甘やかしたらその子は社会のルールを学べなくなるのではないかと思う。
何か問題があったら障害者だという言い方は、言った人の品位を落とすのではないだろうか。

無論、真実がわかった時に「障碍者だった」「違った」の上で意見を述べるならいいとは思うが(言い方もあるとは思うけど)安易に一人相撲で決めてかかるのはどうかと思ってしまう。

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