令和の『ブラック・ジャック』雑想

 もう去年の出来事になるんですけど、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』に新しいお話が出来ました。
 私にとってそれは、存在は知っていたけど避けていた感があるモノ。
 しかし『いつか触れてみよう』とか思っていたんですが、確かネットかテレビで公開されていた『1ページの大ゴマ』に『言い難い違和感』を感じて近づきがたかったんです。

 でも・・・もしかして今後、何らかの理由で『封印作品扱い』になったら読むことも叶わなくなってしまいそう。
 (『グリンゴ2002』みたいな例もありますし)
 そう思ったので、『えいやっ!』と今回掲載誌を買っちゃいました。

 
 で、読んだ感想ですけど・・・以下はあくまで個人的な意見です。
 異論ももちろんあるでしょうし、『私の感じ方』と捉えてください。

 本作は私の理解が間違っていなければですが、
 ・物語の大筋はAI
 ・コマ割りもある程度AI
 ・作画は人間
という制作工程であったのだと理解しています。

 それで、出来上がったコレは

『確かに似ているし、原典の息吹も感じるけど、他者が書いたモノである』

と思いました。
 近いところで最近の『ベルセルク』みたいです。
 絵柄は似てる。
 でも原典は多分しないような表現に違和感を感じる・・・とでもいうのでしょうか。

 特にそれが台詞回しに顕著に感じられました。
 なんとなくですが、例えば16ページなら
 『ピノコ古くないわよ』

 『ピノコ古くないわ「の」よ』
という感じで『わよ』ではなく『わのよ』のように、『手塚先生のブラック・ジャック』なら、ここでピノコ故の『未熟でかつ特殊な言い回し』が出ると思うのです。

 22ページの『10億円払います!』も唐突な感じがします。
 原作で時々のぞいていた手塚先生の『毒』を思うなら、ここは作中で圧倒的な善人のはずの依頼医師があえて悪人面を作ってニヤリとしながら

『・・・10億円でも?』

とか、ブラックジャックの銭ゲバ性にカマをかけるも『出来ないモノは出来ない』とあっさり撃沈・・・みたいな流れの方がより『らしかった』ような気がします。
 そんな違和感が一番色濃く出ていたのが冒頭で触れた大ゴマだったのですが、コレについては何がどうというのは止めておきます。

 そういう意味では、この作品を通じて『現在におけるAIの限界』を見たような気もしますし、しかしこれが『過渡期』であるのなら、将来的にはその先で『そっくりのなにか』が出来上がるのかも知れません。
 人が描く『画が似る』のは今の時代案外多いのかも知れないです(もちろん多大な才能は必要ですが)。
 しかし漫画は『画』であると当時に『物語』であって、映画に例えるなら 監督兼脚本家がカメラマンであり全ての俳優でもあるわけなのです。
 ある『漫画家』というこれら全ての『多角的才能』を、『似せるため』に網羅するのは、もしかすると『ひとりの人間』には難しいのかもしれないです。
 そういう意味では『学習が先鋭化するAI』の方がより『原作』に近づく可能性と、それが可能であるとすれば『そこに到達するまでの速度』は、高かったり、早かったりするのかもしれないです。

 ・・・といいつつ、人間の『分業』の効率や『センス(・オブ・ワンダー)』をまだAIが完全に学習出来るとは信じていません。
 本作に関していうのなら、手塚先生の『呼吸』を真似ることが上手い方がいるとして、その方が監修が出来たならもっとこの作品は洗練されたんじゃないかなと思います。
 前提として『新しい作品を描く』のではなく、『既存作を「継ぐ」』のならその方がベターだったかなあと。

 それか『オークションハウス』のリュウ・ソーゲンみたいに『オリジナルを超える贋作を描く心意気』で見た人を唸らせるか、ですかねえ。
 本当にあくまで個人的には、ですが『ブラック・ジャック』は前者、『ベルセルク』は後者を目指した方が良い気もするのですが・・・さて?

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