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自分の感受性くらい

茨木のり子 著

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今日は、朝からこの一冊に呼ばれた。
時折、思い出しては、綴られた詩に会いに行く。

詩集というものは、あまり読まない気がする。
それでも、たまに出会うとグイっと惹かれる。
ひとつひとつの言葉の背景に想いを巡らせながら読むというより、"観る"に近い。

時間だったり、場所だったり、匂いや色。
そして、皮膚で感じる何か。

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タイトルにもなっている詩に初めて触れた時、
何とも言えない気持ちが湧き上がって来た事をまだ手に取るように覚えている。

目の前に鏡を突き付けられたような…。

ふとした時に幾度となく浮かんでは、自らの
行いや振る舞いを省み、襟を正す。
そんな詩のひとつだ。

今日、久しぶりに一冊全てを改めて読んで、
これまでとは違う強さを感じた詩があった。

"他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏で切れいと進言するが
肯じない
仕方なく手伝う もそもそと

生きているよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで"
〜 茨木のり子 「知命」

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あれ?
少し前の自分を観ているようだった。

私は、人から何かを相談される事が多い。
昔からそうだった。
アドバイスをするなどという事ではなく、
ただ黙って話を聴いて
大丈夫よ、元気出して!と返す。

吐き出すことで、気持ちが少しでも軽くなってくれたら私も嬉しかったから。

ところが、ある時、ハタと気がついた。
自分の胸の中に、燻り、判然としない塊がどんどん大きくなっていく事に。

誰かのためにと繰り返してきたことが、結果的に自分も相手もグルグル巻きに縛りつけていたという事に。

依存と頼ることは違う。
壁が現れて、ぶつかって、辛くなって、どうにもならない、ように感じたら、助けを借りればいい。遠慮なく。

ただ、
引き返すか、よじ登って乗り越えるか、最後に決めるのは、自分。

自分の自由意志。

そして、その意志の土台には、
厳しくも優しい、多くの、
また別の自由意志に支えられているのだと。

知命

知命を迎えた今、なんとなく読み返した詩に
惹かれたのは、私がようやく、自分には自分の役割があり、それを精一杯、演じて貫き通すことがどういうことか?
ようやく、この身を、魂を持って少しずつ分かってきたからかもしれない。

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