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なぜカミングアウトが存在するのか

『恋愛することが幸せだから、恋愛をしなさいと強要するのはよくないと思いますし、自分がいるこちら側の恋愛感情のない世界も強要したくないです』
強要、わ・か・る~!😭恋愛できない自分は欠陥品なのかなってずっと劣等感あったもん…! 『俳優・中山咲月が“無性愛者”を公表した理由 「恋愛しないの?」の質問がつらい人へ』  https://t.co/TeGfZWHpW8

言ったら楽になる、もマジで分かりみ深い〜!

私は「アイルランドの首相(現・前首相)が、なんでわざわざ自分はゲイだって公表するのか分からない」と言われた時に、「…あ…この人には言わんどこ」と思ったものでしたよ…ええ。(「言って楽になれそうにない」から)

自分の性的指向を日々、楽に《公表》できてる人らには分からないよね。自分はこうだって、わざわざ言う、言わなくてはいけないと思う気持ち。日々、異性同士なら何も問題なく外を歩ける。紹介できる。公表してると意識せずに公表してる。

アイルランドは、少し前まで中絶は宗教的に絶対ダメ、そして女性が婚外子を産もうものなら矯正との名の下、洗濯女として教会に入れられ、劣悪な環境で働かされるような国だった。(この件は後年、政府が正式に謝罪済。)

そんなアイルランドで、そんなんだった国で、国民の投票の結果、憲法変えて同性婚ができるようになった、この凄さ。(日本とは憲法の成り立ちが違うからね?今の日本で同性婚は「違憲」ではないからね!念の為。)

この国では、まだまだ、「異性愛者で性別が心身ともに一致している人」(=シスジェンダーのヘテロセクシャル)が普通・当然で、ある程度の年齢になれば恋愛するのが当たり前で…それから外れている人は「変だ」と、有言にも無言にも、圧があって生き辛い社会だから…。

「普通から逸れると幸せになれない」みたいな空気があるから。

だから言わずにはおれないんだよ…。異議を申し立てたくなるんだよ。存在を主張したくなる。

「私の大事な部分を否定しないで、私を無視しないで」って。人生のどこかのタイミングで。いや、それが一生来ないで済む人もいるよね。一生隠し通して墓場まで持ってく人も。でも、そのタイミングが来る人もいるんだ。いろんな理由で。

例えば。自分を偽っているようで苦しいとか、誰かに分かって欲しいとか。自分だけじゃないと思いたいとか、社会が変わって欲しいとか。自分の中にあるモヤモヤをスッキリさせたいとか。

…きっかけは人それぞれ。カミングアウトを「したくならない人」も、「したくなる人」も、人それぞれ。今はしたくないと思っていても、いずれはしたくなることもあるかもしれない。相手によってはしたい、って人もいるかもしれない。

カミングアウトするっていう行為は、それは別に、メンタル強いとかじゃないんだよな。少なくとも私にとっては、そう。

例えば「自分にとって大事なことを、大事な人には共有したい」という類いの話なんだ。いや、そこまで深く考えずに、無意識のうちに何でもかんでも外に出してしてるって人も、いるのかもしれないけど。

・「自分の個性の一部」(アイデンティティ)を、外に出したい、表現したい人もいる。→作家とかエッセイストとか。

・自分の経験を社会のために共有・還元したい=社会を変えたい、って人もいる。→フェミニストとか議員とか。

・自分の経験が周囲の人のために役立って欲しい、って人もいる。→ピアカウンセラーとか。

つまり、それがいわゆる、「政治や社会や人間といったことに興味がある人」なんだと思う。ざっくり言うと。

今日は友人と長電話したことで、そういうことに、気がつかされた。私とは逆に「自分の大事な部分を外に出されたくない」「そっとしておいて欲しい」「見られたくない」「そういうの、なんとなく嫌だ」と思う人もいるってことを、私は理解できてなかったってことを。いや、理解できてるつもりで、理解できてなかったという事実について。

たぶん、本当の意味では理解できないのかもしれない。だって、前述の通り、「自分の経験を外に出しても、出されてもいい人」に育ってしまったから。言われた通り、私は障害の程度が軽いからかもしれない。そりゃあ私だって、なんでもかんでも晒されてもいいとまでは言わないけど…。

『心の中の大事な部分を裸にされたみたい。どうして見ず知らずの人にそういうこと平気で言えるの??』とハッキリ言ってもらって、ようやく分かったよ…。自分が何をしでかしてしまったのか。今までしてきてしまったのか。自分の話の一部として、好きな人が性的マイノリティーだった、と言うことも、そう捉えられるんだと気がついた。自他境界なさすぎだったね、私…。

私の中で似たような感覚の出来事がないか、考えてみた。すると、1個思い付いた。

障害者は特別じゃない!と言ってバラエティーやってる某番組。好きだけど、賛同するけど、応援してるけど、たまにしか見られない私。社会学の講義で見たり、自分から見たりした。けど、私にとっては「障害を笑いに変える」なんて、そんなの無理だった。たまに見てるとキツい時がある。それと同じ感覚だったんじゃないかな、たぶん。

自分にとっては、「話題」にすることまではできても、「笑い」にすることまではできない。でも誰かにとっては、話題にすら出したくないかも。それと同じことかもしれない。

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