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好きと自信の関係


この人の書くエッセイはいつも、どこか既存の枠なんか軽々と飛び越える感じがして、すごく好きだ。つい「~であらねばならない」と自分で自分を縛ってしまう、みたいな生き方と、対極にある感じが。

『人を好きになるのって、ほとんど相手の問題じゃなくて、自分の感情を信じる力』

・・・なるほどね。確かに、自分の中にある感情を自分で信じられなきゃ、他人を好きになるのは難しいだろう。

でも自分の中にあるモノを信じたり、認めたりする、と言ったって、モノによっては案外と難しい。それに、信じる以前に、うまくまとまらなかったりもする。モヤモヤしたり、不安だったり憂鬱だったりするけれど、自分にいったい何が起きているのか、説明がつかない時がある。だから時には、自分以外のモノ・コトへ寄りかかったり、助けを求めたりするのも、人が生きる為には必要だ、と私は思っている。例えば、友人とか、書籍とか、カウンセリングとか、薬とか…。

…と言い切ってみたけれど、実のところ、そんなに自信があるわけではない。ただ、ここのところ1人では乗り切れない波が押し寄せ過ぎていてそうするしかない、というのが実情かもしれない(笑)

波打ち際に立っていて思いがけず大きな波に足を取られた時って、1人では立っていられないものだから。

自分の感情、特に「好き」を信じると聞くと、私はまずYouTubeのコメント欄を連想する。『自分の好きな○○がメジャーになれなくて、こんなやつが人気とかあり得ない』みたいなコメントを見かけた時、胸の中がザワっとする。推測だけど、その人は他を下げなければ自分の好きを肯定できない人なのかもしれない、と感じるのだ。そして、それって悲しいことだな、と哀れに思ってしまう。(上から目線かな)

またある時、ゲームに対してマイナスなニュースが出た時のネットの反応にも、似たようなものを感じた。私はそのニュースに触れた時、「スマホやゲームを長時間やって社会に適応できなくなるなら、それはやっぱり治療が必要な状態なんじゃない」と思ったのだった。でも、まるで、好きなものそれ自体を全否定された、といわんばかりのコメントをいくつか目にしたので、モヤモヤしてしまった。

自分がそれを好きで、自分がよいと思うのならば、堂々としていればいいのに。

「好きは好きだし、自分が「好き」と思うことが全てだし!それでい~じゃん!」などと思ってしまう自分は「自分の好きを信じられている」ということなんだろうか。
つい「世間が認めてくれなくてもいい」だなんて、格好つけたことを言いたくなる。
(とはいえ別に、格別、自信満々な人間ってわけじゃないと思っている。むしろ、他人の目は気にするし、大人しめな方だ。)

究極的には、自分の感情も含め自分自身を信じられないような状態では「生きていかれない」から、とりあえず今はそうしたいだけ、なのかもしれない。

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