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愛ってなんだ、なんてことを真剣に考えてしまう夜明け

ムーミンシリーズは、読もうと思いながら、なかなか重い腰があがってない本のひとつ。

でも、このコラムを読んでハッとしたから、やっぱり自分が読むべき本ではあるだろうな…。

『誰かを心から受け入れようとするならば、そういう自分とは相いれない側面も、等しく引き受けなければならないこと』

 https://globe.asahi.com/article/13034706

孤独とか、孤立とか、愛とか、寂しさとか。それらはどうして生まれるのか、を考えるには、ぴったりなんじゃなかろうか。(そう言ってる間にさっさと読めばいいのに)

引き受けること、受け止めること、それが「愛」なんだろうか。すると例えば、受け止めきれないのは「愛する」のには失格なんだろうか。

いや、受け止め「たい」、分かり「たい」、理解し「たい」、そういう気持ちがあれば十分それを「愛」と呼べると私は思う。

理解したいといえば。私は障害者やLGBTQといった社会的マイノリティと言われる存在を「理解できなくてもいい」と思っている。「理解増進なんて言葉、上から目線だ」という気持ちがある。それよりは、「違いを認め合う」方向性の社会が、いい。(以前、高知東生さんという方がつぶやかれていた言葉の受け売り) 

なぜかと言えば、一口に障害者と言っても、それぞれだし、当事者だからって、障害者のことを何でも知ってるわけじゃないから。違う障害への思い込みや勘違いや偏見が、ないと言えば嘘になる。それに、誰もが「障害を乗り越えて」「障害がありながらも」生きているわけじゃない。普通に、困難を前に悩んだり立ち止まったりもする、葛藤もある人間だ。

そして、特に見落としがちなのが「障害者ということ」だけがその人を構成する要素ではないということ。障害者として取扱われるよりは、個人として目の前のこの人のことを知ろう!と思って欲しいし、社会もそういう雰囲気になって欲しい。

ただ、当事者以外の人は「知ろうとすること」からは逃げないで欲しい。「そこにいる他者」のことを知っておいて欲しい。これは、いないことにされたくない私の勝手な願望だけど。

自分は当事者じゃないから、自分の価値観と相容れないから認めたくないと、存在を無視したり否定したりしても、社会的マイノリティは、残念ながら、消えてなくなるわけじゃないのだよ、って言っておきたい。これは、「今そこで生きている人間」の話なのだ。人権の問題であり、すぐそこにいる隣人の生活や人生の問題。

私は、どうやら「普通」という枠には入れず、障害があり、性的志向(好きになる性)も、異性とは限らないみたいだ。そんな人間として生まれついてしまったらしい。物心ついた頃には、なんとなくそう思っていた。

それでも、普通校の普通学級に普通に通って、時々いじめられながらも(ごく稀に反撃しながらも笑)まんざらでもない人生前半だった、と思う。むしろ、私は周囲の人に恵まれて運がよかったくらい。

一度だけ、手術に伴って特別支援学校に転校したら、すごく生きやすくて驚いた。自分が「動ける人、できる人」に変わった瞬間だった。今までは「できない部類」だったのに。

そこでの経験から、障害者と一口に言っても千差万別、と体感したし、理解、だなんておこがましいと知った。LGBTQや夫婦の姓のあり方にしたって、国や政府が、なんとなくの「普通」という枠を振りかざして、異質だからと目をつぶって否定しても、その人の望むあり方は、変えられるものじゃない。

「多様性を!」と号令をかける前に、すでに社会は多様、なのだ。

◆今ここで生きている人々、の一例◆         「幸せレズビアンカップル長期追跡取材企画」  私が応援してる企画です  https://note.com/lesbianreport21

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