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大変、誕生日が来てしまった!

歳を刻んだアラフォーの心境

HAPPYとかBirthdayの前に付けたの誰?

20歳を超えたあたりから誕生日が嬉しい気持ちが減っているのですが、無事に大病なく歳を重ねることができました!毎日ご飯にも困らず、家族もみんな健康で、何より日本がそこそこ平和なことって、今の時代とても幸せなことです。

とはいえ、最近はHAPPY BIRTHDAYとか言われても全然年を重ねることをハッピーだと思える年齢でもなくなってしまいました。だからこそ1年何も大変なことがなかった、無事平穏に生きれていることに対してHAPPYを感じようと思っています!

きっと昔はそれこそ大病なく無事に育つことが親の喜びであり、なんならもっと昔の人はその当たり前が今よりもとっても難しかったのでしょう。だから1年大きくなるごとに「おめでとう」と言ったのかもしれませんね。

お母さんは死にそうだった!

誕生日の日、母が私に言ったことは「お誕生日おめでとう、母も大変でした」というまさかの自分大変だったという主張で家族一同笑いました。

私は4120グラムという巨大児でこの世に生を受けました。本来でしたら4月後半くらいの誕生日の予定でしたが、お姑さんと同じ出産予定日だったことに絶望した母が「まだ出てきてはダメよ!!」と言い聞かせたところ、出産予定日より2週間くらいお腹の中で呑気にしていたそうです。

当時は胎児の体重を測るシステムが今ほど正確ではなく、母は自然分娩となったところさあ大変。私がデカい。母は初産で輸血を経験することになりました。お医者さんも予想以上に私がデカかったと言っていたようで、医療の発展って本当に大事ですよね。今4000グラムの赤ちゃん産むなんて日本じゃ考えられないのではないでしょうか。何事も小さく産むための徹底した体重管理がされると聞いています。そういうの聞くと、日本で産むのって本当に大変そうです。

母が私を産んだ年齢をすぎている

そんな母が私を産んだのは私の今の年齢よりもはるかに前のことで、母が私の年齢の頃は私はもう小学生だった。そう考えると何か感慨深いです。私はあの時、友達のお母さんを全員「おばちゃん」と呼んでいたけれど、今なら結構な大問題!でも当時は「〇〇ちゃんママ」とかではなく全員「おばちゃん」だったはず。。。なんで自分たちはそうやって同い年くらいの女性を読んできた罪を背負っているのに今の私の世代は「おばちゃん」を絶対NGワードにするのかは謎であるけれど、とにかく私はそう考えれば立派な「おばちゃん」みたいだ。今の世間は優しいからついつい忘れがちだけれど、私も立派に年を刻んできたんだなと思うのです。

シビアなオンラインの世界

ちょこちょこ私の趣味がオンラインゲームです!ということはNOTEでも公言しているのですが、やはり私はオンラインゲームの世界では立派なおばさんで、年寄りプレイヤーとして活動しております。10代や20代に比べれば動体視力も劣るし、3D酔いもかなり激しい。私は人生のゲームは2Dで生きてきたので3Dでしかも1人称視点とかいうここ10年くらいの流行りを受け入れることができずによくダウンしています。

もちろん、私と同世代、それよりも上の方(最長老で見たのは68歳とかですかね)も多くゲームの世界には存在しているのだけれど、男性ではなく女性はなぜか私くらいの人は特に年齢を非公開ではなく詐称したがるのも特徴です。人によっては年齢を聞かれただけでヒステリーに怒るような方もいます。せめてバーチャルの世界ではキラキラの20代でいたい人、これは実は結構多そうです。ただし、男性は結構自分の年齢を詐称しない、でも性別は詐称するので面白いです、ネカマってやつですね!

何はともあれ、こんなに気軽に色んな人や国、世代の人と楽しめる世界はこれからも趣味として楽しんでいきたいと思っています。

女性が年齢で制限されることへの当事者意識

私は特に年齢というものを公開しないタイプですが、これは詐欺ではなく意図的に言わないことが多いです。というのも "Age is just a number." と英語圏ではよく言いますが、年齢はあくまでもその人の人生を彩ってきた年数の証であり、正直その彩り方、濃淡は人それぞれです。しかしながら、とりわけアジアという国は女性に対して「若い」という生物学的な視点を含めて正義と考えがちです。これは本当に生殖の意味が強いと思います。

加えて年齢に対してこうであるべきみたいな固定概念があるのもアジアの特徴で、〇〇歳だからこうしなければならないみたいなシラバスが国として無意識にあって、何事もそこを理由を結論付けてしまう。特に日本はこれが個性よりも集団性を重視するエレメンツになっていて、出る杭を打つみたいなことをもたらしているのかなと思う節もあります。

そういった側面からもゲームやインターネットという世界ではざっくりとした年齢で生息しています。正直こういう理由なのかはわかりませんが、年齢対策・性別対策を意図的にとるインフルエンサーさんも多くなってきたなと感じています。

もちろん「傾向を知る」という意味では、ざっくりした世代や性別が分かれば人をカテゴライズしやすくて安心します。特に女性に対して言えば、29歳か30歳か、その1歳の差が命の重さのように思わせる傾向が強いです。要は存在自体を年齢でジャッジメントしてくる。これは現実世界でも全く同じことですが、ネットの世界はより激しいような印象をうけます。

おばさんという名の当事者として考えてみると、年齢が若いことだけで勝った、負けたをしている人はみすぼらしい年の取り方をしてしまうのではないかと心配になるのです。
なぜなら良い年の取り方をしている人は、幾つになっても美しいから。自分と向き合ってきた人は外見ではなく人相が美しい、目の奥が優しい、身のこなしだったり人との接し方だったりが美しいのです。例えそれが学生の頃にさほどその差が見受けられなかったとしても、確実に私の年代になる頃にはにじみ出てしまう。仮にネットの世界であっても言葉のチョイスや、知見の広さ、何かあったときの一言、そういう咄嗟のことで人となりがかなり出てしまう。20代中盤以降にはこういったことは顔にで始めるなと感じるようになりました。

真のおばさんとは何か?

おばさん!っと一括りにする若い世代には分からないことだし、私も分かりませんでした。よく20代までで女としての賞味期限が終わってしまうような話をされます。たしかに生殖という意味ではピークは28歳くらいまででしょうが、女性の人生は続いていく。男が30歳からだというのであれば、おばさんたちはおばさんになってからが腕の見せ所でもあります。

「本当の老い」

それは中身の老い、脳の老い、考え方の老い、相手の意見を聞ける柔らかい頭の老いを意味している。そういったものにすべて抗っていくことで「真のおばさん」、死語でいうところの「オバタリアン」でしたでしょうか?そういったものから自分を遠ざけることができます。

これは決して若作りをしろということではなく、自分に似合ったものを知り、自分に得意なことを知り、自分が苦手なことを謙虚に受け止め、若い世代を受け入れることだと私は思っています。こういったたゆまぬ努力が年々良い顔を作り、優しいシワを刻み、目の奥の優しさになり、口調になり、身のこなしになる。ブランド物でどれだけ身を隠しても苦しいだけ、お金をいくら注いでも根本が解決されない。自分自身の老いとの戦いなのです。。。

次年度への抱負

自分の体を大切にしようかな

私が好きなものはジャンクフードや甘いものが多くて、これは本当にアメリカ生活の賜物でしょうね、砂糖まみれの人生を送ってきました。人が食べないようなお菓子や、青色のカップケーキをみるとテンションがあがるし、きっと日本に暮らしていたころよりも色んな食べ物や食材に触れてきたんだろうなと思います。ただ、東南アジアで暮らした30代の時に「油」に対しての耐性が大分なくなってきたなと感じてからは、体の細胞分裂は確実に遅くなり老化が進んでいることを認めざるを得なくなりました。そろそろがっつり人間ドッグをしたいと思っています。

女性としてどう生きるか?

ここ10年、私の身の回りの友人たちの多くが家庭を持ち、母になりました。そして毎日育児に奮闘している姿を見ていると偉いなと純粋に思います。一方で私はこのままでいいのかしら?と、どこか置いて行かれたような気持ちになる時期もありました。「本当は私もお母さんになりたいのか?」20代後半くらいから真面目に考えてはきましたし、占いに見てもらう度に「あなたは子供を産んだほうが人生が豊かになる」とか「子供を産んだほうがいい人」などいろいろ言われたりもします。聞いてもいないのに教えてくれるので占いって結構微妙なラインですね。

私の性格は少し捻くれているというか小難しく考えるところがあります。そして観察癖があるというか、人の変化には小さいころからなぜかとても敏感です。だからなのか、子供を産み育てている友人の変化がずっと気になってきました。母親のプロフェッショナルになっていく一方で、一部の友人は他者への視野を大幅に狭めており、他人のゾーンに土足で平気で足を踏み入れる人が出てきました。アドバイスという名の押し付けというか、うまく言えないのですが全ての人の世界が彼らの「こうあるべきだ!」論で終結する必要があるみたいな感じです。具体的にいうと、政治関係の関心ごとも子供関連、税金関連、貯蓄、進学、何もかもが主婦・育児目線になる。そして子供を育てていることは日本の未来を育てているみたいな国家プロジェクトみたいな感じで話されるのだけれど、その子たちの意見以外のことを話したものなら NO!!!!! っとなり、気づいたら向こうの子育ての悩みを聞いている。残念ながら女性の世界はこういった場面で生き方が違うようになった友人とは袂を分けるみたいな感覚に泣く泣く陥る人が一定数いると思います。

もちろん、どちらがいい悪いの話ではなくて、子供の人生を背負っているという責任感が彼らにはあるので、彼らの意識は子供に降り注がれているのは当たり前なのです。ただ圧が私には耐えられないときがある。これは自分の心や思考を大切にするという意味でかなり攻撃的な議論を請け負うことになります。彼らの言い分でもある、子育てをしている女性のほうが生物学的上にも社会学的上にもマジョリティーだと思うのですが、だからと言って私の生き方も否定されたくないという感覚なのです。

一方で不思議とお父さんになった友人たちはそうでもありません。彼らにはいつまでも子供の部分というか、友人だった頃の面影があって、アホな話もできる。子育てに関しても持論はもちろんあるけれど、他論ももちろんあるだろうからねといった感じで少しニュートラルに話すことができたりするのは救いですが、こちらはこちらで頑固になり、女性とは違うプライドが色々大変そうだなと感じたり、みんな大人になるって大変です。。。

仕方がないことなのよと子育てを終了した人たちは言います。「子供を産めば分かるし、世界が変わる」とか「子供を育てていく中で私たちは成長していく」とか「せっかく女に産まれたんだから出産は経験しておくべきだ」とか、本当に女同士のほうがこういう話題は残酷なんですよね。

私の友人の幾分かは、このような個人の意思決定関連のことには一切口を開かないでいて共通の話題をしてくれます。それでも20代から私は多くの友人を失い続けてきました、それは中高の友人、大学の友人、社会人になってできた友人、本当に多くの友人と疎遠になってしまった。

でもこれはお母さんという職業の人たちだけではないのです。いわゆる、バリキャリと呼ばれる友人もこの中に含まれます。子供を産んで主婦である人、育休をたくさんとる同僚などをガンガンに揶揄するようなことを言う人もいるのです。これは本当に両極端で、最初はこのどちらに自分が当てはまるのかと極端に考えていましたが、アラフォーともなるとどちらかに所属することもせず、ソロでいっか!みたいな気持ちで今はいます。

ただ、女性としてこれからどう生きるのか?と考えた時、もう少しだけ自分は次のステップに思考を移していきたいと考えるようになりました。これからまた時が流れて、50代や60代でまた話そうね!という気持ちで見送るような女性でありたいのです。

今は見えている世界が違ったとしても、私たちはまた人生の旅路の中で同じものを共有できるかもしれない。その時は、あちらは今度は子供や孫の話をしてくるかもしれない。その時、私は子供も孫もいないかもしれないけれど、それはそれでいいと思えるくらいに自分の人生を誰かに託さずに生きていける女性になりたいなと。

女性として国に社会に還元できていないと言われればそれまでなのかもしれないけれど、自分が女性としてできることは子供を産むことだけではないと思うのです。もしかしたら子供を産んで育てる誰かを社会的にサポートはできるかもしれないとかそういう類のことです。仮にもし、私がこれから子供を持つことがあったとしても、そういう思考でいられるような人になりたい。だからもっと多くのことを知り、考え、色んな立場の人の気持ちや状況を考える視野の広い人間になれるよう努力しなければならないなとこの年になって思うようになりました。

知見を広げる

20代後半くらいまで、自分の得意分野や興味関心ごと、適性が良く分からず、とりあえず色んなことに挑戦してきました。30代になり、なんとなくで継続されてきたことが、今の知識も技術も資格もない自分に繋がっています。それでもなんとか社会で仕事があるときもある、それって多分10代と20代前半の預貯金(頑張ったこと・知識等)に生かされている部分がかなり大きいのではないかと思っています。貯蓄というのは切り崩されているもの、だから切り崩していくだけではなくて新しい余剰を作る作業にそろそろ入るのが妥当なんだろうなと思っているのがここ3年くらいの私で、これは継続していきたいと思っています。

社会のルール人間になりすぎない

絶対、みんなそう、それはルール違反、これは普通こうするべきだ。みたいなことをあまり知らないことにまで余計な口を突っ込む、そういった言動に最近敏感になりました。

これはゲーム仲間とも言っているのですが、世論が昔より見えやすくなりましたよね、かりそめの世論と私たちは言っているのですが、主にSNS等で同じ意見の人が1つの投稿に集まりあたかも大衆世論のようにワーワー大きな声をあげられるようなプラットフォームが社会に増えています。その影響で自分に似た意見ばかりに目が行き、結果それがすべてで後は良くないみたいな過激な集合体が生まれてしまう。それを勘違いした人が身近な違う意見の人を激しく非難したり、攻撃していまうという悪循環です。昔は村単位であったものが今はSNSで繰り広げられてから現実世界に戻ってきたり、マスコミによっておかしくされたり忙しい世の中です。

おそらく知見がある人、本当にそれを考え抜いた人はそういう群れの中で声を挙げずに本人に直接助言はしてくれると思います。しかも、本人が望んだ場合にしてくれることが多いのではないでしょうか。

知見のある人が大きな声でそういったことを言わないず、発信する方法を慎重に選びます。マネタイズしない人が最近は信頼されたりしますね。

また、世の中の誰かのプライベートな事柄に対してはそういった配慮ができる人は賢い大人だなと感じます。他人が大の大人の思考を限定・断定・断言してあーだこーだ言ったところで意味があるでしょうか?最近はそんな違和感をメディアや会話のなかで覚えます。もちろん関わりたくないのであれば、知らないふりをするのが賢いという考え方をする人が多く、立派な賢い蘇生術だと思います。

謙虚さという意味で言うなら、私たちは大人といっても大体80年か90年くらいの時間しか生きられません。その短い時間の中で自分の目で見れるものも限られている。だから何千年も続く色々な理の中で、ちっぽけな1人の人生をかけて考えてみたところで、よくわからないことの方が多かったりしても不思議ではないです。自分自身のことすら分かずに一生を終える人は少なくないですし、多くの人が自分と身の回りの人への理解と共生に時間を注いでも上手くいかずに苦戦します。どんな立派なことをいっても我々は自分のことになればそんな程度ですから、他者のプライベートや人生のあり方に上から目線で介入し、ジャッジしている暇など本来はないんですよね。

あとは社会という不安定な組織の問題もあります。今日の当たり前は時代が少し変われば当たり前じゃないこともあるし、海を経れば非常識なこともある。法律ひとつ取ってもそうです。物事への解釈というのはちょっとした社会のイベント(戦争や紛争、統治)などでいとも簡単にねじ曲げられてしまう。だから絶対にとかゆるぎなくとか本当とかはないのかもしれない。そんなことを帰国子女経験ですが複数の国に住んでみると思ったりします。

だからこそ私みたいな法の番人を生業としない者は、よく分からない人が作るルールを脳死で暗記するのではなく、あくまでケースバイケースだと理解したほうがいいなと思うようになりました。そんなことに意識を持っていかれるくらいなら、仮にあと人生40年あるとして、何人の人に出会ってどんな多様性を見せてもらえるのかみたいな、そのケースを理解できるためのソース集めに人生を費やしたいのです。そして、そんなことができる平和な世界でずっと続くよう、微力ながら尽力できる大人になれるように努力しないとな思っています。

言葉を正確に話す

日本語は特に曖昧さが売りの言語のひとつなのでしょうが、言葉の意味を理解して正確に自分の感情を表現することへの努力が最近薄れています。

難しい表現をしましたが「あれがさーこうでさーそういう感じなのよ」みたいな指示語とモヤっとしたニュアンスでお話しする自分がいることを、昨年あるゲーム仲間から指摘されました。「それって老化になるんでやめたほうがいい」と。言われた時は一瞬イラっとするような感情が湧きましたが、すぐにその通りだと思って最近は指示語話をやめたり、相手に意思決定を任せるような言い回しはなるべく避けるように正確に話そうと思って過ごしています。

子供の頃に「何が嫌なのかちゃんといってごらん」と言われてたはずの大人が段々とあの時の子どもみたいに言えなくなったなという感覚があります。無難に、上手に、なんとなく、もやっとは必要なときに意識して使うならいいんでしょうが、私の場合は脳を使うのが面倒でこうなっているんだと自覚もあります。

脳を色んな場面で動かす

私は好き嫌いがはっきりしているタイプの人間で、好きなことをたくさん考えるのが好き、面倒なこと興味のないことは聞き流すようなB型気質なところが強いです。学校にいるときは、嫌なことをする、興味のないことでも毎年何か新しいことが強制的にやってくるみたいな経験を断続的にしてきました。しかし、20代・30代になってくると、自分の専門とか強みとかの中で仕事をするようになる人は多いです。結果、営業職的なメンタリティ、コンサルティング職的なメンタリティといった感じで職業病メンタルですべてを考えて判断することに脳が慣れてしまう。同じような本を読んだり、同じような趣向や職種の人と一緒にいることが楽になる。これが私が友人を極端に減らすことになった理由の一つでもあります。

これをしてしまうと、刺激が偏ってしまう。だから自分の嫌なことを少し日々の生活に取り入れること、私の全く興味のないことを勧めてくれる友人の勧めに耳を傾けることから逃げない脳を作りたいなと思っています。それが私の老いへの抵抗でもあります。

老いは結論をすぐ出したがり、考えることが疲れるようになりますよね、そして人の話が極端に聞けなくなってしまう。それは自分の興味関心、ヒットする範囲が狭まっていることを意味するのではないか?と思うのです。

都合の悪いことはもう聞かないし、なかったことにして聞き流してしまう。もちろんストレスを溜めないという処世術を身につけているという点では大人なのですが、それは脳の一部の機能を停止することになる、それって結局どれだけ表面を若く保ったとしてもおばさん、おじさんになることに繋がっていくのではないかなと。若い頃、おじさんとおばさんが嫌だなと思った理由がそこでした。

一方で若い人の考えること、思うこと、今世の中がどういう風に動いていて、どんなディバイスが流行ってだけではなくどういう使い方がされていてなど自分と違う未知の年代と絡む人は若い感覚を持ち続けます。これは見た目の話ではないのです。何か意味がわからないことを言われても「分かった!やってみるかー!」とか、「明日試してみるね!」みたいなアクションまでの時間が短い。言ってすぐ行動に移せる勇気と失敗することへの無駄なプライドを持ち合わせていない。そこに今までの経験も加わって精度が結構高い球が打てるみたいなのが大人でかっこいい。こういった能力を持ち続けることができたら素敵ですよね!

私が今せいぜいできそうなことは、意味のわからないゲームに手をだしては3D酔いしてそれでも若者のゲームに付き合うとか?よく分からない早口で歌う歌手の歌を必死に聞くとか?最近だと若者から勧められたアニメは見るようにしています。TickTockだけは色々な理由で個人的に見ることは避けていますが、自分が若い頃にこんだけのプラットフォームがあったらどんなにいろんな可能性があっただろうと思う一方で、今の子どもたちが自分で考えて何かを創り出すことへの難しさも同時に感じることができています。

怖いのはこういう流れを子育てしている親たちが知らず知らずのうちに与えて理解が薄いみたいなことが横行していること。ここについての危惧感は何らかの形で発信できたらいいのですが。。。もうちょっとここはリサーチが必要そうです!

まとめ

誕生日は大雨で、家で誰に会うわけでもなく自分の人生レビューをしながら過ごす陰キャぶりを発揮しました。こういう特別な日を自分と向き合う時間に充てたのはおそらく人生で初めての経験だったと思います。こんなまとめを誰が読んで得するのかは分かりませんが、誰かの何かの一助になったり、反面教師になれたら嬉しく思います。これからもこつこつ書いていきたいと思うので、もしよければまた遊びにきてください!

お誕生日おめでとうございました、今年も頑張っていこうね、自分!


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