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多重人格と言われる帰国子女の話

私たちは、この世に生を受けたその瞬間から社会で何者かになって生きるというロールプレイングゲームの開始地点に立たされていると思う。

ロールプレイングゲーム(略称:RPG):参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般には互いに協力しあい、架空の状況下で与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越え、経験を通して成長していく過程を楽しみながら目的の達成を目指すゲームである。

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最初に与えられた役割は「子ども」という1つでいい。でも成長の段階で複数のROLE(役割)を兼任することに慣らされていくし、中には望まない役割もあったりして気分が上下左右に揺さぶられる時期もある。私はこれを「人間社会ロールプレイングゲーム」だと思っている。
ゲームとしての人間経験値は1年ずつ均等に上がるわけでなくて、人それぞれだからいろんな人生がある。人生が終わるときがゲームが終わるときと考えた時、どれくらいの人生経験値を獲得できたのか。「幸せな人生だったな」なんて思えたらそれが最高のエンドゲームだと思っている。

これからは超高齢化社会。私たちはおよそ90年の長い時間をかけて、このゲームを笑ったり怒ったりしながら生きていく。
家庭というフィールドが「はじまりのまち」だとしたら、幼稚園や保育園が「最初にたどり着く村」で、中学・高校・大学そして社会へとレベルが上がるごとにあなたがたどり着く街や移動できる国が増えていく。勿論、レベルが上がれば周囲の敵や環境も強くなるしややこしくなるから、人生は段々ハードモードになる。その旅路で、あなたは何人の味方に出会って、どんな経験をするかで人生の厚みが変わるのだと思う。
その厚みや試練の数はあなたが通った道次第だし、これが正しいなんてルールもルートもないのよね。泣いたり笑ったり、時に倒れたりしながら立ち上がっても進まなければならない、ギブアップは死を意味する。そんな過酷なゲームを私たちってこなしているんじゃないかと思う。

今日私がここでお話ししようとしている「帰国子女は多重人格説」は、こういった人生社会ロールプレイングゲームをこなす中で、王道のストーリーからずれてしまったひずみで得たあるスキルのこと。海外という異空間でレベル上げ(経験値上げ)を行った子どもたちである帰国子女が、生きるために得ていた特殊スキルが「多重人格」だったとしたら…?

言語で性格が変わるという説があるらしい

帰国子女は分析されているという話

そんな異世界出身の帰国子女を学術的に研究する人は多い。その多くは、私たちの特徴とも言える「言語」の多様性と「人格」の相互関係に着目していて、複数話者は人格を複数持ち合わせているといった系統の研究みたい。

少し掘り下げると「言語」が出来上がる過程に着目している。言語は国の文化や背景、そして習慣が深く関係して出来上がったコミュニケーション手法であり、文章の組み立て方や表現方法、例えば1つの物事のとらえ方に至るまでが「言語」に大きく影響しているという考え方がある。だからこそ「言語」を習得する中で自ずと「人格」に何かしらの影響がある可能性が示唆されていて、複数言語を幼い頃から話す、使い分けているというマイノリティーな環境が、その子ども自身の考え方や性格にも影響を及ぼすと考えることができるというわけだ。要は、話す言語によって多重人格にもなりえてしまうみたいな話である。こういった研究の詳細が気になる人は文化人類学や物理科学系の研究論文とかを検索するとたくさん出てくるのでお勧めだ。

具体的にイメージがわかない人だけここは読んでね

上手に伝えられたかが心配なので、具体的に言語が文化に絡むというのはどういうことかを少し記載しておきたい。
日本語と英語の言語の違いでよく言われるのは以下のようなことだ。

  • 最初から最後まで聞かないと話がわからないのが日本語

  • 最初だけで大体の意図や意志を汲み取れるのが英語

今の時代には英語のような明確なコミュニケーションが求められているので、日本語は少々回りくどく感じてしまう。ただし、これには我々の祖先がどのような生活をしてきたかという文化的背景が強く影響したと言われているので以下の2つを確認してほしい。

<日本人>:農耕民族
常に共存して協力し、実った穂をともに刈り取る生活のため、協調性と足並みを揃えることに重きが置かれた。よって、コミュニケーション方法も「集団」の中の自分ということが重視され、「話をしていく中で結論を出す」「空気を読んで共に納得できるように会話する」ような空気感を求めた。
<英語を母国語とする国>:狩猟民族
常に危険と隣り合わせのため、「自分がどうしたいか」「相手にどうして欲しいか」をしっかり命を守るためにも主張する必要があった。自分が全体のどの位置にいて、相手がどこにいるかを認識して行動することで、自身や仲間の命を守り狩りをしたため「個」が主体となる空気感が求められた。

この考え方を具体的な例に挙げて考えてみたい。皆さん大好きなディズニーでお馴染み【不思議の国のアリス】の1シーンを紹介する。
シーンはアリスがふしぎの国に迷い込んだ時のことだ。英語では"Where am I?"というのだが、日本語では「ここはどこ?」と字幕がつく。この場合、英語ではあくまでも自分という「個」の存在を中心として、自分は今どこに存在しているのか?と問う。それに対して日本語字幕では、どこの空間「集団」に自分は今属しているのか?といった表現になる。
このような2つの異なる性質をもった言語が、自分の中に小さい頃から混在したとき、人はどのような行動を取るようになるのかといった研究がなされていると思えばいい。おそらくその結論が、これらが共存するために多言語話者は多重人格になるのでは?という話なんだと思う。

Hello, my other half.

理論ばかりでは面白くないので、私の場合の話をしたい。
海外の番組を見ていたりすると何か胸騒ぎに近い感覚で「ここから出してくれよ」といったメッセージとともに海外逃亡欲が芽生える。「わかる!海外旅行ってリフレッシュできるよね!」みたいな女子っぽいノリではなく、確実に誰かが私の中で窒息してる。わりかし強めにドアをドンドン叩くような感じで、結構ガチのやつだ。

もちろん、その胸騒ぎの正体も「自分」なのは理解している。その存在に気づいたのは大学4年生ごろだったと思う。ちょうど親がアメリカから帰国し、海外に定期的に行く予定がなくなってからだ。その子は妙に日本にいる自分を窮屈に思って、性格は曖昧な立ち位置が大嫌い。白黒は基本はっきりさせたいし、知らない人にも挨拶したりと外交的で、明らかに「ありがとう」などの挨拶系はマナーとして多くなる。身振り手振りも大げさだ。

この子に出会うのは基本、日本でないどこかに降り立ったとき。仮に日本語で話していても基本はこの子が主導権を握っているので、何事もはっきり自分の意思を表示するようになる。

どちらも自分で、どちらも間違っていないけど、周りは戸惑う

私自身がこんな感じなので、私の海外旅行に同行する人は余計に戸惑う。特にアメリカにいると顕著で、納得しないと速攻で交渉に入るし、子供や老人、ハンディキャップの方には徹底的にモノ・席・空間全てを譲ることを徹底する。一緒にいる人にも当然やるでしょ?といった姿勢になる。なんでも笑顔で話すから夜になると口元が疲れてるのは毎度のこと…。

記憶が分断されているわけではないので、親や友人との関係はいつも通りになる。一番近くで私を見ている親や弟、そして妹はすんなりこの変化を受け入れているので、あまり違和感はないと思う。(なんなら気づいていないまであるかもしれない)ただ、父は時折「かぶれてる」と私にいう時がある。正直本人はそういった意識はないので、そういった心無い表現が子供を傷つけることもあることは知ってほしいと思う。自然体の自分を身内に否定されるのは、いくつになっても悲しいものだ。

まわりが気づくと本人は救われる

この違和感が何かに気づかない子供も多いかもしれない

どこがスイッチになるかわからない

私の場合、人格のスイッチは「自分が今いる場所が日本かそれ以外か」で発動するが、これが万人に適応されるかは分からない。前述したように言語を話す時点でスイッチが入る子もいる。要は個人差があって、そのような認識自体がないので苦しんでいる子もいるかもしれない。アイデンティティクライシスみたいなものと混同しやすいのでしばらく沼る人もいるだろう。

仮にその状況を認識しても、その人格を「ストレス」を認識するかも個人差がある。私の場合は認識できるようになってからは定期的なガス抜きが必要になってしまったタイプだ。1年に一度は日本環境から脱出してもう一人の自分を労う会を勝手に開催する。特に現地では観光らしいことをする必要はなく、暮らすように旅をしていれば心が落ち着く。

今の子供はもっと複雑だろうから・・・

国と国の境目が曖昧なり、多言語が日本でも受け入れられるようになった。それが昭和から平成、令和にかけての大きな変化だと思う。ネット環境も、ダイアルアップからADSL、光になってほぼラグもない環境で音声も動画も世界中を行き来している。ゲームもオンラインで世界中の人と繋がれる。マイクラ、フォートナイトと子供たちもこの世界にタブレット端末、ゲーム機器から気軽にアクセスでき、リアルとネットの境界線がなくて棲み分けできないものになった。要は、海外と日本は物理的に離れてはいるものの、向こうにいる仲間と分離されているという感覚自体が古くなり、全部がオンタイムの完全ボーダレス時代になったのだ。
この大きな変化が子どもにもたらしたものは大きい。いつでもどこにでもいる人と繋がれる時代であり、繋がらなければいけない時代になってしまった。人の渦から抜け出す口実を作るのが難しく、複雑な人間関係に子供時代から悩まされるようになった。だから私のように、2つ、ないしはそれ以上の人格をどのタイミングで発動して、どのタイミングで切り替えているのかはよりわかりにくくなっていてもおかしくはない。

だからこそ、こういった人格の切り替えの問題がわが子にも起こりうる可能性があることを、親があらかじめ知っておくことは無駄なことではない。帰国子女は社会で研究対象にされるくらいには、複雑な心理構造をしていることを親が知っていたなら、受験対策だけに明け暮れるだけが帰国子女を持つ親のすることではないことが分かるだろう。
もちろん、子供の性格などはご家庭の指導や環境により更に多様化する。だからこそ、同じ背景を持たない教師たちが子どもの特徴や性格を正確に把握し、スペシャルケアを施すのは期待するだけ無駄である。例え、英語を母国語としないためのクラスであるESLに入っているとしても、ESLの教師が子供のメンタルケアまですることはそうそうない。あくまでも学校生活の勉強のフォローでしかない(なんなら役にたたないESLも多い)。親までもが勉強のフォローに躍起になってしまっては、子供の「人格」「心」のトラブルは誰がケアできるだろう?勿論、知らなければその変化にいち早く対応することは難しい。正直なところ、自分の子供にそこまで深く興味を持てるのは、親くらいしかいないことを忘れてはいけないと思う。

子供の苦しさを感知することができたなら…

子供がまずどんなタイミングが苦しいのか。「ケーススタディー」を積み重ねることは大事だし、それを対話等で探るのはいいことだと思う。
言い方が悪くて申し訳ないけれど、子供が日本語と英語を切り替えているという表向きのところだけを見て「うちの子、なんか外人っぽくってかっこいい」だとか「帰国子女っぽくって誇らしい」だとかを思っている親は一定数いるようだ。よほど自分のブランドとしてしか興味がないのか、何か自分にコンプレックスを抱えているのかはしらないが、本当に滑稽に見える。親が子供を誇らしく思う部分はもっと掘り下げたところであってほしいと願うばかりだ。

わが子がもし英語を話すときだけイキイキしているといった様子なのであれば、海外の文化に多く触れさせる機会を積極的に作るなどして「ガス抜き」をしてあげるのは悪いことではない。例えば旅行に出る、留学に出す、オンライン英会話を受講させる、海外の友人とビデオ通話をつなぐなどだ。
「ガス抜き」という言い方が果たして正しいのかわからないが、私はこれを「もう一人の自分を解放してあげる」と表現している。もう片方の自分を「解放」できないというのは、なんとなくメンタルの不調や違和感に繋がってしまう。だから、そういったことになる前に「バランス」を取る方がいいと考えているからだ。ぜひそういったケースもあるので、子どもが思春期くらいの場合は特に親が注意して導いてあげてほしい。

今、異空間でレベル上げしている君へ

映画やゲームの中の困難なシーンはある程度進んでから訪れることが多い。それは映画を見ている視聴者やゲームをしているプレイヤーが、ある程度そのストーリーを理解して「慣れた」ときに見せ場を作って飽きさせないようにするためだ。
私たちは人生というロールプレイングゲーム(RPG)のなかで、結構早い段階で強敵なボスに出会っているし、よくわからない「大きな街」に到着してしまった。レベル50くらいで来てやっと楽しめる街も、レベル10できたら何も面白みはない。お店に入っても高すぎて何も買えないし、街の中にあるサブストーリーもレベルが追いついてないので受注できない。そんな街の周りで、自分とはレベルが違いすぎるモンスターを倒して何回も死にそうになりながら経験値をハイスピードで上げている状態で、結構ハードな戦いを強いられているはず。

もしあなたが日本人学校でも、インターナショナルスクールでも、そして現地校でも、難易度というのは周りがみるから比べられるもので、放り込まれた我々にしたら大変には変わらないのだから、お互いの経験値上げをああだこうだいうのはやめておこう。
大切なことは、それを比較して蹴落とすことじゃないということ。その戦いで学ぶことは人それぞれで、その経験がすべて正解で「生き抜くために必要なものだった」ということ。私たちは違うゲームで戦っているのだから、マイクラとフォートナイト、スプラトゥーンは比較ができないでしょ?そこを無理やり帰国子女とまとめているだけで、結局何一つ同じなものはない。そこを無理やり比較して一緒にしようとしてるのって、一番日本人らしい「みんな同じ集団の中にいる活動」だと考えることができる。

あなたが今できることは異空間にいる or いた自分自身と向き合うことだ。そして自分が得たもの、足りないもの、自分の中にある生きにくさ、違和感を大きなノートにまとめて異空間から無事に戻ることだ。私たちは永遠に異空間にいることもできるけれど、親の都合で一度は元の世界に舞い戻る。その時に、自分のことを自分が一番理解している状態を作ることで、人生RPGゲームのゴールを目指していかないといけない。

もし、あなたが異空間で得た新しいスキルに「多重人格」というものが含まれていて、自分の中に複数の自分がいるなんてことになった場合は、その全員と仲良く元の世界でも生きていける方法を見つけることになる。でも、その自分を最強のバディーだと思えたなら人生はより楽しくなる。だって、これから乗り越える色々な荒波を、2人で3人で4人で乗り越えていける。仲間を探す手間が省けているのだから。

次の人生のクライマックスが来た時には「結構ここまで大変だったけれど、面白い仲間増えたな、強くなったな、もうこれ以上今はやることがないな!」と思えたら、周りの人よりも少し楽ができるかもしれない。もしくは、また異空間に今度は自分の意思で飛び込んでいけるかもしれない。

今のあなたというキャラクターで過ごせる人生は一度きり。日本という狭い国の中の価値基準、親の持っている古いブランドなんてこのボーダレスの社会ではどんどん駆逐されていくもの。これからは何が必要なのか。自分の中にいるもう一人の自分や経験はどうやって社会で活かせば幸せなエンドゲームを迎えられるのか。それは親は分からない。だって親はもう新しい出会いもないし、同じ街に住まう住人だから。戦う必要がガクンと減った人にはそれはおそらく分からない。でもね?その人たちもまた一生懸命戦ったからこそ「あなたを守れる宿を作って待っていてくれる強い味方」になった。だからあなたには必要な人たちであることを忘れないでほしい。どんなに強いプレーヤーも「回復」ができなければ死んでしまう。だから親はあなたの代わりにそういったサポートスキルを携えて、あなたの傍で応援してくれている。そう思えたなら、もう一回、外で安心して戦えるはずだよ。

あなたの人生は、誰のものでもない、あなたが最高のエンドゲームを迎えるためのもの。さて、あなたは次の出発にむけて誰と今何ができる?


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