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体育は学べる

高校に入学してすぐのことだ。
体育の時間に体力テストの測定が行われた。

私は筋金入りの運動音痴で、自分の体を機能的に動かす才能が圧倒的に欠如している。スタミナコントロールができないし瞬発力についてはそもそものエネルギー総量に欠けるしダンスをさせたら絶対に振り付けを教えてくれた人に笑われる想定外の滑稽さが乗っかった動きになってしまう。

そんな私なので、体育の時間を楽しいと思ったことは全くなかったし、体力を測定されるだなんてもってのほかであった。
勉強については「できなくてもまあまあしかたないっしょこんなのw」みたいな雑な笑いが発生して和やかに流されるというのに、スポーツについては「うわ、あんなのもできないんだなんていうかキッショ……」みたいなノリで処理されることについても納得がいっていない。
いや、そんなことは今はいいのだ。とにもかくにも私は運動ができない自分が白日の元に晒される割に、特段できるようになるための手ほどきみたいなのが与えられることのないこの体育の授業というシステムを好いていなかった。

さらに私は孤独であった。
トイレが綺麗な学校に進学したい、あわよくば都会の学校に行って放課後に遊んで帰りたいという邪な気持ちで進学先を選んだ私には進学先に同じ中学から進んだ友人がひとりもいなかった。さらに(自覚はなかったが)気難しい性格が災いして、入学してから友達ができたのは4〜5ヶ月はあとのことだった。つまりこの体力測定の頃私は友達もいないまま、ソロプレイヤーとして教室や体育館、グランドといったフィールドをうろつく怪しいクラスメイトだったのである。

体力測定は案の定ろくでもない成績ばかりを記録していった。長座体前屈はまだいい。持久走(我が校はシャトルランではなく持久走の指定だった)、50m走、反復横跳びなどの記録は何年も低い水準で横ばいのままでその年もそうだった。
それでもまだしれっと出席番号の波に乗ってさっさと立ち去ってしまえばうやむやにできる。少し恥ずかしいけどすぐに終わる。

問題だったのはハンドボール投げだ。
私はこれが一等苦手だった。しかもあれはボールを投げて落ちた記録が白日の元に晒されて、しかもその後もう1回測定するから結構時間がかかる。うやむやにしていなくなることもできない。

腕に力を入れて思いっきり投げる。遠くへ飛ぶイメージをする。先にやっていた子がうんじゅうmとかとんでもない記録を出していた。あれほどとまでは言わないが多少は飛ばしたい。

2m。

2m!?

自分の身長にちょっと上乗せされたぐらいしか飛ばないだなんて。いや、毎年こんなものなんだけど毎年いざ自分の実力を目にするとめちゃくちゃヘコむ。ちなみに16歳の平均値は14mぐらいらしい。本当だろうか。

手の空いた生徒がボールを回収してくれている間、私はひとり落ち込んでいた。ああ、情けない。でも運動は嫌い。好きじゃないものを頑張りたくない腐った性根の積み重ね。ゴミ。
そんな時に後ろから声をかけられた。さきほどとんでもないボールの伸びを記録していたバスケ部の女の子たちである。

「あのね、マオロンちゃん」
「はえ」
「マオロンちゃんはね、肘から先しか使ってないでしょ?」
「ほえ」
「ボールを投げる時はね、肩を使うんだよ」
「ふえ!?」

初耳だった。
外聞もなくふえ!?とか行ってしまうぐらいには驚いた。
ボールは手で投げるのに肩を意識して投げるだなんて考えたこともなかった。

ありがとうの言葉もそこそこに言われた通りに投げてみる。たしか6mぐらいだったか。とにかく倍以上に伸びた。なんだこれすげ〜〜!

この時私は自分の体についての取説を熟知していないことを知ったし、体育は人に教えてあげることができるものだということを知った。
今までの体育の授業はいったいなんだったのか。あんなん子供の放牧やないかい。

結局今でも運動は好きになれてないけど、憎むほど嫌いではないのはあの時ボール投げを教えてくれた2人のクラスメイトのおかげだ。できないなりにやれることはやればいいしどうしようもないなら教えてってお願いしたらいい、それからがんばればいいだけのことだ。




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