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積読の城

リビングにある私の積読スペースがいよいよ小さな山のようになってきた。
平たい面を上にして高く積まれた本の高さは雑誌を縦に収納した時の高さに匹敵するだろうか。
しかもその山は2つもある。
このまま積み重なった山が集まるとサグラダファミリアのようなちょっとしたお城ができてしまいそうだ。

それなのにこの積読たちを読み進めようとしないのはなぜだろう。
思い当たることはいくつかあるが、特にこれだというものが1つ。

読んだらいつかは手放してしまわないといけないからだ。
本を置くスペースにも限界はある。
我が家は幸い比較的本を置くスペースが広い方だがそれでも置く場所には限界はもちろんあって、今のストレージ使用率は……半分は超えているんだろうけど実際のところはあまり考えたくはないし確かめたくもない。
与えられた本棚などの容量を超えて書籍を置くことはできないので適宜整理しなくてはならない。
しかし私はその事実と向き合うのが怖いのである。
何かを切り捨てて何かを残しておくために備えておくべき審美眼が自分に備わっているとは思えない。そして正しい審美眼が備わることはどんなに努力しても一生ないこともわかる。客観的に整理しようとするならば何かの思想や基準に偏ったものになってしまうし、主観で整理すると私という人間の変化で基準はいつでも揺らいでしまうからだ。
なら何が正しい「基準」なんだいと問われるとそれは「うーん、なんとも」なんだが、自分で整理する勇気もないのに誰かに整理されるのも納得がいかないというテレビにたまに出てくるゴミ屋敷の厄介主人みたいなことになってしまっている。
これが図書館なら「〇〇文庫」だとか「〇〇図書館」などと縛りを設けることができるのだろうが、私の本棚の縛りは「私が好き・私が取っておきたい」なので言い出したらキリがない。

こうなってしまったのにも理由はある。私が何かを整理したり分類したりするスキルを身につける前に家族が「モノは捨てて整理するものなのだ」ということだけを教えてきたがために、こういった分類して取捨選択する機会が巡ってきてもどうしたらいいのかわからないまま大人になってしまったのだ。

またこいつは家族を悪者にして自分のダメさを正当化しようとしているよとお思いの皆さん、その通りです。でも否めないんです、すみません。

小学生の頃大事に集めていたハムスター倶楽部のコミックスや自分の投稿が掲載された月刊歌謡曲にファンロード。
何を取っておいて何を処分するべきかわからないまま全部どこかに売り払ってしまったことを大人になってからとても後悔している。
私にとって本はアルバムの写真と同じようなもので、古い本であっても手に取って「ああこんな内容の本が好きだったな」だとか「これを読んでいた頃はあんなことがあったな」と記憶を呼び起こすトリガーになる。これを失ってしまったのは私に取っては記憶や血肉の一部を大海原の中に目印もないまま放り出してしまったようなものなのだ。あーあー痛いよー右腕が疼くよー左目もなんだか痛いよーつらいよーえーんえーん。

こういった手元にある本たちを我が家に留めておける理由が「まだ読んでいないから捨てられない」なのだ。
買ったものを読まずに捨てるなんて金をドブに捨てるのと同じことである。それなら読んでから必要かどうか判断なされ。という心理を利用して私は私の心に本を買ってもいいという免罪符を与え、書籍を捨てなくてはならない時に猶予を設けている。
卑怯千万。セコいにも程がある。
おっしゃる通り。少しも否定できない。

今日もあやうくとある図書館にもおいてないしこれから置かれることもないであろう漫画ではない本をポチっと買ってしまいそうになったが腹筋に力を入れて息を呑むことでグッと堪えた。
積読の城に囲まれてみたいという願望は捨てきれないがゴミ屋敷の厄介主人になってしまっては本末転倒である。
この連休は書籍の整理かな……積読の城もかっこいいけどせっかくなら本棚に綺麗に並べておきたいもんね。




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