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35 胸のざわめきと命の音

33・34と続いたお話は今回で終わり👏
今日は「宍粟の旅🌳完結編」。
宍粟の旅になぞらえた私の思考のヒミツ基地はコチラ↓↓


【ではでは本編】↓↓

「なんか…こわい…(๐•̆ •̆๐)💦」
原不動滝を目前にして感じる何か。
目に見えず得体の知れない何かを感じる時、私はいつも胸のあたりがザワザワする。むーー。(๐•̆ •̆๐)

昔の私はこのザワザワのバリエーションにきちんと色分けができなかった。つまり、その後の出来事が自分にとって“心地いい”のか“悪い”のかは体験して見ないと分からなかったのだ。
でも、今となってはそれも自分の揺るぎない判断基準を固めるまでの“材料集めの期間”だったと思っている。判断基準が明確になった現在、やっと真の自分の人生がはじまった。愛と勇気を胸に、戦わない戦士である!✊😳 (←アンパンマンではない😳笑)

🌳

いきなり脱線したけど、話を戻すと、、
この日、国道29号線から原不動滝へ続く脇道へ入った瞬間から私のカラダに“圧”がかかり始めた。イヤな感じではない気がするけど、かなりの威力。
駐車場に到着して車を降りるとさらに全身に圧が…。
入り口の観光事務所の女性にご挨拶し、協力金200円をお支払い。原生林の森へとお邪魔した。
すると、すぐに私の左手の指が痺れ始めた。

「アイタタタタ…😵💦」

奥へ進むにつれ、目の前がぐるぐるしはじめた🌀。
階段をゆっくり登ると長ーい吊り橋。下は、、何メートルあるのか…💦岩が小さく見える。
前を歩く親友の腕につかまり吊り橋を渡り切る。

☽(心の声)「ひゃー…😱 吊り橋があるとは
     聞いておりませぬー😱💦」
          ※高所が苦手😃

突然、異空間に放り込まれたみたいだ。
定規で測れるものや人間の頭で思考すれば簡単に答えが出るようなレベルのものじゃない。私には到底理解できないけど完璧な調和なのだろう。
日頃から目にしているものとのスケールの違いに、思考が止まり言葉を失う。
ただ目の前の景色を、ありのまま映し取る。
分かった!それが「心地いい」の正体だ😆☝️✨

幅も高さも感触も異なる舗装された階段、無機質な素材で人間が作り上げた吊り橋。それさえも森の一部と化している。体験しているのは「いま」の連続体で、脳もココロもカラダも大忙し。「わたし」全部で味わう、“いま”。

平衡感覚も遠近感も分からなくなってきた。
森や生き物たちで構成する精妙なネットワークは目に見えないけど、よそ者の私たちをも包みこむ。
足を踏み入れた瞬間から、森の精霊やあらゆる生き物が目を覚まし、目の前に私たちだけのホログラムが現れる。私たち二人で創る現実。

「おじゃまします」

この張り詰めた静寂の中に身を置くと、私のカラダは見えない世界からの“圧”を感じる。いやな圧じゃない。手は痺れ、耳の鼓膜を圧迫しつつも、呼吸は深くなる。すごく気持ちいい。森の周波数に合わせようとする私のカラダ。感覚がいつにも増して敏感になっている。

うっかり「静寂」と表現したこの場所は、数万という音で溢れているから、その表現は正しくない。
現に、滝の落下する水音は凄まじい。なのに鳥の声、土を踏みしめる音、風が木々を揺らす音がすべて耳に飛び込んでくる…。異なる周波数だからなの?だからぜんぶ聞こえるの?
私の稚拙な頭で考えるより、聴覚をはじめとする五感に尋ねるのが賢明だ。

こんなにたくさんの音を浴びているのに、私はなぜ「静寂の中に見を置いた」と表現したのだろう。
騒々しいパターン化された機械音じゃなく自然音だから? それまで街の雑踏から発せられる限られた周波数に慣れていたのだろう。退屈していた脳が忙(せわ)しくなってきた。

ここは紛れもなく命の音で溢れている。
時間を忘れ「いま」という時空間が永遠に続いているのを体感する。変化がないように見えて、実は変化しかしていない。
とてもゆったりと、だけど激しく。

落差88メートルの「原不動滝」をパチリ📷✨
写真じゃ静寂も迫力も伝わらなくて残念ー。•̆₃•̑

帰り道、吊り橋に慣れて早めに歩ける私がいた。「ゆっくり歩きなさーい」と行く手を遮る一匹の蜂さん🐝。私の周りをゆらりゆらりと舞う。街なかで出くわす蜂とは違い、表情がやさしくて攻撃するつもりがないのは分かる。
逃げ場のない吊り橋の途中、さすがに鮮やかな橙色に怯(ひる)む私。
「わぁー…こわいー(ToT)。うーー。」と騒ぐ。
蜂さんなりのご挨拶(?)が終わるとスーーッと森へと消えていった。

🌳………🐝

私の脳は、幼少期(2〜3才)に訪れたという記憶をこの機会にもう一度取り出すことはできなかったけど、見たものを完全に忘れることはできないはず。またいつかどこかでスパークすることがあるだろう。そのために今、小さな記憶の種に水を撒いたと思おう。

そういえば、、森と滝を堪能している間、誰とも会わなかった。ちょうど私たちが森へ入る時、数人が帰っていくところで、私たちが戻ったら入れ違いで女性二人が駐車場に到着したようだった。
前後の来訪者の間を縫って、ほんの少しの間(ま)にお邪魔できたようだ。
私たちが脇道を一度見逃して通り過ぎてしまったのは、他の人とバッティングしないための計らいかな😌絶妙なるすきま時間だ。素晴らしい。
そーだよね。あの静寂は大勢のヒトのエネルギーで荒らすもんじゃないよね。
おかげで静かに堪能できた😊ありがとう。

駐車場近くを歩いていると、さっきまで身を置いていた場所がいかに異質な空間だったのかがカラダを通して感じることができた。いつのまにか胸のザワザワは消えて無くなっていて、気がつくと地球時間が戻ってきた。

約3年ぶりに再び✨٩( ᐛ )و
⛩️播磨国一の宮「伊和神社」

滝の後は伊和神社へ向かった。前回訪れたのは15時前後。今回はさらに遅めだったから常夜燈に灯が入っていた。幻想的で奥へ進む景色に、前回とはまた異なる魅力を感じた。
再び訪れることができて嬉しかったから、手を合わせ、祖父母へ話しかけた。その後に、ある“宣言”をして「サポートしてね😍」とお願いしちゃった😉✨
なぜだかその瞬間、胸がいっぱいになった。

🌳


3回に渡り綴った「宍粟の旅」。
今回はいつもよりも細かく私の脳内を開示してみた。私の頭の中はいつも忙しい。
以前“ぽんこつLIFE”の記事のどこかで、脳がフリーズする現象のことを、【パソコン画面上で起こる現象に例えて「脳の砂時計状態⏳」と呼んでいる】と書いた。

人間は実に記憶的な生き物なので、魂と肉体にぜんぶ蓄積されている。宿る魂によってその内容も量も違うと、私はなんとなくそう思っている。
私の感覚では、脳が砂時計状態になる時、「どーすればいいのか分からない」というのではなく、記憶や知識があることは分かっているのに「スムーズに取り出せない」という感覚が強いのだ。ホントにこれ以上うまく説明ができない。おそらくこれ以上言ってもぽんこつの「言い訳」にしか聞こえないと思うし…(。•ᴗ•。)💧

でもちょっとだけ誤解を恐れずに言うと、、
ランチメニューが2種類しかなければすぐ選べるけど100種類あったら時間かかりますでしょ?ちょっとその感覚に似ているのデス。。
他の人とは比べようがないし証明もできないけど、私は記憶の量が多いと思ってる。だから、初体験するものなどをなぜか「既に知っている」ことが多い。これが私の透知能力に気づいた経緯とカラクリでもある。

…とゆーか、、全人類の記憶が大きな壺の中にあって実は皆で共有しているのだとしたら、私はそこから沢山取り出そうと試みている人…というだけなのかもしれない。
膨大な記憶と叡智を扱うためと、それを処理するために脳をアップデートしないといけないのに私はおそらく間に合っていない…。で、いつも脳内は砂時計or渋滞。。
一般常識的な事柄に疎いのは、取り込んでもなぜかすぐに忘れてしまうということもある…。これ以上、空き容量がないのか、単なるぽんこつ(故障)なのか…。
ま、こーゆー話は別の機会にいたしますー😌✨

🌳


食いしん坊日記(←いつから😃?)のラストは、やっぱりこーゆー感じにしよう✊

ベーグル専門店&道の駅「播磨いちのみや」で
✨キラキラ特産品✨をGET ٩( ᐛ )و♡

・ベーグルは「サンドイッチ」に
・お野菜たちは「水炊き」に
・小松菜は厚揚げとともに中華風に炒めて
・大根は「ふろふき大根」で
  〜味噌ダレと柚子の皮を添えて
・絹豆腐は昆布&煮干しとともに「湯豆腐」に
・黒枝豆は湯がいてそのまま&残りはスープにin
・紫黒米の玄米は白米にまぜまぜ

超絶、堪能!!!(*//艸//)♡
めちゃくちゃ美味しくて、特に大根なんて3本くらい買えば良かったと後悔。笑
絶対また行くー!!
それではこの辺で…😌

Ayumi☽


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